【ヨルガ文庫】シュガープラム、コンフェイトー

その日は朝からなんとなく不思議な日だった。
朝起きて、外に出たときから、いつもより大気が綺羅々々と偏光して視えるような気がしたり、何となく鼻先をくすぐる空気や、木綿のシャツの袖をよぎる風の手触りも違うような、そんな気がする日だった。


僕の仕事場はポストオフィス。判りやすく言えば郵便局。手紙を届けるのが僕の仕事だ。手紙を配達するポストマンはたいがい皆僕のような少年で、学校に行かせてくれるような家や両親がない代わりに、階段の軋む木造建築の寮と、同い年くらいの気の置けない仲間たちがいる。僕にとってはこの仲間たちが家族みたいなものだし、旧時代的で古臭い木造の寮だって、口煩い母親や堅苦しい学校に較べたらむしろ棲みやすい、天国ってものだと思う。

今日は僕は早番。朝も陽が昇る頃から寝台(ベッド)を抜けると、簡素な食事が用意された食堂で硬いパンと豆のスープをお腹に放り込んで、花の香りがするお茶を飲んだら早々に寮を出る。
今日のシャツは白い木綿の長袖。蝉たちがけたたましく鳴いて地面に濃い影が落ち、緑の息吹で息が詰まりそうだった夏ももう終わって、今は一年でいちばん過ごしやすい季節だ。僕たちは重たい鞄を斜めに掛けて帝都を駆けまわるのが仕事だから、中にはまだまだ半袖や袖なしのシャツを着ている奴もいるけど、僕はやっぱり長袖が好きだ。洗いざらした木綿のシャツの袖の中を、さらりとした少し冷たい風が通り抜けていくのはこの季節ならではの贅沢だ。今日選んだこのシャツは取って置きの一枚で、襟先が横に開いて翼をひろげたような形になっている。西洋ではウィングカラーと呼ぶらしい。まさしく翼の意味だ。翼の名を持つこのシャツを着て走ると、風に乗れるような気持ちになる。半端な丈の洋履(ズボン)は動くと膝こぞうが出て、冷えた丸い膝でほんの少しだけ季節を先取りできるのも悪くない。

「おはようございます!」

石造りの天井の高い建物は足音の響き方も寮とは違う。オフィスの大人たちが返す朝の挨拶の中をすり抜け、瑪瑙と大理石でできた階段を駆け降りる。マーブル模様の中に古い時代のイキモノたちの名残を探しつつ、職場についた僕らの最初の仕事はオフィスに集まってきた「手紙」の仕分け。
ひっくるめて全部「手紙」と呼んでるけど、僕らが配るのは紙だけじゃない。どちらかというとメッセージを封じた擬似結晶の方が多い。この擬似結晶の封を解くと、差出人が封じたメッセージがそのまま再現されるというわけだ。難しい文章や文字が書けなくても手紙を送れるし、気持ちも伝わりやすいというので、後々まで残したい文書以外はすっかりこの結晶が主流になっている。
僕らはこの結晶のことを通称「グラス」と呼んでいる。この結晶はヨルガなんかと違って構造が脆く、空気に触れさせておくとどんどん揮発してなくなってしまうため、瓶に詰めたり蝋引きの紙で包んだり、硝子板などで挟んで保護しておく習慣があるからだ。揮発するときに薄荷に似た香りを発するので、オフィスも僕らポストマンも、自然薄荷の香りが染み付いてしまう。

差出人の中には僕らにその「グラス」の保護包装 兼 装飾を頼む人たちもいて、簡単に保護材に放り込まれただけの結晶を、依頼主の要望に応じて趣向を凝らして包むこともある。そういった細かい手仕事はそのまま僕らの収入になっていて、高額ではないけれど、その対価で僕らはときどき好きなものを買ったりできる。だからお礼を込めて…というわけでもないけれど、僕らはみんなついつい競うようにしてそれらのグラスに魅力的な装飾を施そうとする。帝都を走り回っているときに見つけた蝶の翅、綺麗な色の葉っぱ。心を伝える欠片は世界中に溢れている。

「行ってきます!」

僕はオフィスの壁に掛けてある制服代わりの帽子を取ると、その下の名札を返して門を飛び出した。
僕の配達地域は第三区の端っこ、第四区と接するあたり。え?ずいぶん中央から離れた田舎の方の担当だねって?
中央は僕みたいな子供じゃなくて、何年も勤めてる年長者が担当してるんだ。大事な文書が多いからね、間違いがあったらたいへんだろう? 配達を始めたばかりの頃は第三区の中でも区画整理が進んだあたりを回るんだ。碁盤の目みたいで判りやすいし、穏やかな住宅街で安心だからね。仕事に慣れてくると、だんだん複雑な区域に配属されるようになる。第四区みたいな一軒一軒の間が広くて道路もまだちゃんと舗装されてないところや、逆に六区あたりの細道が入り組んだ迷路みたいな街。僕はこの仕事を始めて三年目、やっと四区に足が届くようになった、まだまだ「ぺーぺー」なんだよ。でも、そのうち僕ももっと複雑な街に配属されて、もっといろんなものを眺めながら走るんだ。こうやって毎日帝都を駆け巡っているけれど、同じ場所を走ったって同じ風景なんてひとつもない、日々違う顔を見せてくれるこの街は僕をちっとも飽きさせない、僕の大好きな箱庭だ。


わずかにひんやりとした風の中を心地よく走りながら、慣れたルートでどんどん手紙をポストに落としていく。第三区も端っこの方まで来ると家の区画も大きさも外観もバラバラで、郵便受けのデザインも様々だ。第三区の真ん中あたりはみんな同じような形の家で、集合住宅なんかは入り口に箱が並んでいるだけなので、判りやすいかわりに楽しみは少ない。
それにしても今日はなんだか手紙が多い。しかも差出人のない、小さなグラスがいつもより目立つ。
「なんだろう、どこかのお店がまとめて出してるのかなあ。」
それにしては包みも統一されておらず、共通していることといえば装飾がほとんどなく、妙に素っ気無いことくらい。
へんなの、と、僕は独り言を呟きながら、前庭のある小さな家の飛び石を踏んで玄関扉へ向かう。この家は門構えのところではなくて、玄関の硝子戸の脇に郵便受けがあるのだ。ひとつ飛ばしで御影石の畳を蹴っていると、不意に横から声がした。
「あ、その帽子。じゃあ手紙だね?有難う、待ってたんだ。」
首だけで振り向いて見ると、年の頃は僕と同じくらいか少し上か、洋装の少年が庭先に立っていた。さして高さのない木に寄り添って、少年は僕と似た白いシャツに黒い半洋履(ズボン)を履いている。腰のところには小さな袋を下げていた。濃い緑の、片手で握れるくらいの巾着は中に何か入っているようで、底の方がまあるく膨らんで、紐は心地よく張っている。ビー玉とか、鉱石とか、どこかで拾った木の実とか、何かお気に入りのものでも入れているのだろう。
僕がどうも、と片手で帽子を上げてから挨拶すると、彼はこちらへ向かって歩を進めた。低い垣根越しに僕と向かいあう。
「差出人がないんだけど…」
僕は瑠璃色の瓶に封をしただけのその「グラス」を差し出す。瓶の首につけられた、宛先を書いた未晒しの紙が小さく揺れている。
「うん、大丈夫。判ってるから。」
少年は片手を伸べてそのメッセージを受け取った。僕はそれを見て、ふと、そういえばこの家に僕と同い年くらいのこんな子がいたっけか、と思ったのだが、彼が本当に嬉しそうに微笑んで、有難う、ともう一度僕に言ったので、急に照れくさくなって、そんな疑問は上書きされてしまった。結局気の利いたいらえを思いつけないまま、僕は、じゃあ、と右手を振ると踵を返す。そうだ、今日は「手紙」の数がいつもより多いのだ。あまり油を売ってはいられない。午前の分の配達を終えて少しは減ったとはいえ、まだずっしりと重い鞄を軽く左手で押さえながら、僕はいつもの道順に戻った。


明るく澄んでいた陽射しの色はやや傾いて鈍さを帯び、空気も少しばかり肌寒く感じられてきた。三区も端の方になると家々の間隔が広いので、思いのほか時間を食ってしまったみたいだ。このあたりはもうほとんど第四区との境目、家もまばらになって、代わりに緑が増える。風景はすっかり田舎だ。こんな末端までは配達でも稀にしか来ないので、さすがの僕でもこのへんの道や家は正確には憶えていない。
残りも片手で足りるほどになった鞄の中身を手で探りながら、目当ての家に向かう。古い平屋がこの先にあったはずだ。

垣というより野放図に伸びた木々に覆われて鬱蒼と暗いその家は、長年風雨にさらされてすっかり黒くなめされた板壁に蔦を這わせて佇んでいる。真夏はきっともっと緑が濃くて、ここだけ影に塗り潰されたようになっていただろう。まるで廃屋のような、幽霊屋敷のような体である。この地域に配属されてそろそろ一年になるけれど、ここに誰かが住んでいるなんて知らなかった。
郵便受けを探して木立の陰になった玄関を覗き込むと、不意に軽く袖を引かれた。驚いて声を上げそうになった僕は、弾かれたように一歩退く。振り向くと、そこには少年が立っていた。少年、というよりもまだ子供。僕よりも四つ五つは年下だろう。この古い木造の家には似つかわしくなく、西洋の服を着ていた。
どこから出て来たのだろう、中庭だろうか。玄関の引き戸は閉じられたまま動く気配もない。白いシャツに黒い半洋履(ズボン)、襟に小さな星の徽章がついている。僕の袖を掴んでいる手首には、濃い緑の小さな袋を提げていた。この袋、そういえばさっきも見た気がする。
「君、この家の子?」
そう問いかけると、少年は僕を見上げたまま、黙って頷いた。心細そうな、今にも泣き出しそうな顔をしている。家の人がまだ帰ってこなくて、中に入れないのだろうか。
「僕、手紙を届けに来たんだ。これ、君のお家の人の名前だよね?」
僕はなるべく柔らかい声でそう言うと、少年にその手紙を見せた。蝋引きの紙で包まれ、麻の紐で括られただけのその簡素な包みには、小さなラベルが貼られている。少年はその手紙を目にした瞬間、染め替えたかのようにぱあっと明るい表情になった。飛びつくように両手で茶色い包みを掴むと、祈るような仕種でそれを目の前に掲げる。
「有難う、有難う!僕、これを待ってたんだ。」
「どんどんお日さまが低くなって、でも僕のところだけちっとも届かなくて、僕、もう来ないんじゃないかって…」
最後の方の言葉は詰まって掻き消え、澄んだ睛には僅かに涙を浮かべている。そんなに心待ちにするほど大事な、しかも今日中に届かなくてはいけない手紙だったのか。僕は彼のその様子を見て少しばかり申し訳なくなり、片膝を地面につけて腰を落とすと、小さな頭を撫でた。
「遅くなっちゃってごめんよ、今日はちょっと手紙が多かったんだ。」
少年は僕のその言葉に、勢いよく首を横に何度も振った。その仕種は以前寮でこっそり飼っていた仔犬を思わせて、僕は思わず微笑んだ。
「有難う、お兄さん。これ、ちょっとだけどお礼にあげる。」
少年は手首につけていた緑の小さな包みから何かを取り出すと、きょろきょろと自分の手や服を見回していたが、思いついたように手紙を包んでいた蝋引きの紙の外側の一枚を剥がし、その紙に載せて僕に差し出した。
「内緒だよ。」
少年の手の中にあるそれは金平糖だった。柔らかなおれんじ色をした、小さな小さな星の粒が折り重なっている。そのときふっと覚えたような、甘いような緑(あお)いような香りが鼻を掠めたが、何の香りか思い出せないうちに散じてしまった。
少年は満面の笑顔で僕がそれを受け取るのを待っている。僕はちょっと迷ったが、有難う、とお礼を言い、紙ごと受け取ると零さぬように畳んで胸のポケットに仕舞った。
「じゃあ、僕はもう行くけど、大丈夫?」
先ほどの心細そうな様子にちょっと心配になったが、僕もまだ配達のある身である。あまり長居はできそうにない。彼はそんな僕の気掛かりをよそに、曇りのない顔で僕を見返した。
「うん、僕ももう行くから。」
浮き立つような今にも走り出しそうな彼のつま先を見て、何処に行くのだろう、と思ったけれど、問い返しはせずに僕も立ち上がった。
少年は僕を見送って、有難う、と何度も大きく手を振った。


「このへんのはずなんだけど…」
最後の一通になった手紙を右手に、僕は来たことのない道を走っていた。そろそろ林や山に近くなってきた左右の景色を見回す。空には木の枝の隙間から時折、黄金の女神星が見え隠れしている。三区もここまで来るともう家なんかなさそうなのだが、それでも番地はこの先を示している。
最後に残ったその「グラス」の包みはずいぶん大きくて、手のひらに載せると余るくらいである。外装には星の模様の装飾が施されていた。深い葡萄の色が美しいその紙は舶来のインクを使っているらしい、独特の鮮やかな色合いが地のクラフト紙のおかげで鈍く沈んで大人びた色を発している。こんな手紙をもらったら、僕ならこの紙は破かないように丁寧に丁寧に開けて、大事に畳んで抽斗に仕舞っておくところである。
「これもやっぱり差出人が書いてないや。でも差出人がなくても、こんなキレイな手紙だったら僕なら大歓迎だけど。」
だからこそ、ちょっとくらい遠くても、これを待っている人に早く届けてあげないといけない、僕はそう考えて、そろそろ疲れてきた足を片手でぽんと叩いた。

それにしてももう陽が暮れてきてしまった。これは寮に帰り着く頃には空の色は藍色だろう。急いで届けてしまわないと、このままじゃあ寮の夕食にあぶれてしまう。
食事のことを考えたら、ちょっとばかりお腹がすいた。今日はずいぶん遠くまで、しかも走りづめで来たのだ。お腹も空くというものである。そこで僕はふと、先ほどあの少年からもらった金平糖のことを思い出した。ひとつふたつ齧ったら、疲れが癒えるかもしれない。胸のポケットから蝋引きの紙を取り出し、そっと開く。通常の金平糖より一回り小さなその砂糖の粒は暮れ方の光でつやつやと輝き、まるで星のカケラのようだ。僕はその粒を指先でつまんで口に放り込んだ。甘さだけでなく、ほんの少しの苦味が舌に広がり、どこか不思議な馨が鼻腔を抜ける。金平糖は金平糖だけれど、僕の知っている金平糖とはちょっと違うような気がする。どこの店のお菓子なんだろう。
さりさりと口の中でほどけるその舌触りを楽しみながら、三粒ほどで包みを元に戻す。後は寮に帰ってみんなで分けなくちゃ。こういった珍しいものに対して独り占めは厳禁である。

小休憩を終え、最後の配達に戻ろうと思ったそのときだった。
何処からか、音楽のようなものが聴こえくるのに気がついた。
耳を澄ますとそう遠くないところで確かにその音は鳴っている。木立の奥へ目を凝らしてみると、葉陰を洩れて灯りのようなものが見えた。周囲が暗くなって来たので、灯りが目立つようになったのだろう。
音楽が流れていて、灯りがある。少なくともこの先に人がいるなら、この手紙はきっとそこへ届けるべきものなのだろう。
僕は目的地が見えた喜びで軽くなった膝を高く上げると、邪魔な帽子を空の鞄に突っ込んで再び走り出した。


木立が拓けると、そこには予想外の広い空間があった。そしてその傍らに建っているのは家ではなく、もっと大きな建物だった。白と浅葱で塗り分けられた壁は鎧のように細板を重ねた造りで、西洋風の破風を持つ三角の飾りが見える。三階建てのそれは中央の入り口から左右対称に翼をひろげ、窓には簡素ながら五角を持つ細工が施されていた。こんなところにこんな建物があったなんて、僕は今の今まで知らなかった。
ここが学校ならば、目の前の広場は校庭なのだろう。校舎の窓からは紐が張られて、その紐に幾つものランタンが灯されている。僕が先ほど見た灯りはこのランタンのようだ。灯りの下には横長の机が出され、色とりどりのシロップが入った大きな硝子の容れ物と、重曹(ソォダ)水の瓶が並んでいる。蓄音機からは音楽が流れて、どうやら祭りか縁日の最中らしい。甘いような緑(あお)いような香りが立ち込めたその庭には、たくさんの少年たちが楽しげに集っていた。まだ幼さを残した五、六歳の少年もいれば、僕よりも少し年嵩の子もいる。彼らは皆一様に白いシャツと黒い半洋履(ズボン)を着けていた、きっと制服なのだろう。今日の僕の服装に少し似ている。

取り敢えず僕はこの学校の先生にでもこの手紙を渡してしまおうと思い、目で大人を探してみたのだが、生憎校庭の中にはそれらしい人物が見当たらなかった。どうしたものかと思いながら広場に近づくと、突然、横から肩を叩かれた。

「遅かったじゃないか、遅刻ギリギリだよ。」

広場にいる少年たちは連れ立って僕の元へ駆け寄り、親しげに話し掛けてくる。僕はちょっと面食らって返答を失った。
「あれ、見ない顔だなあ。」
僕の肩を叩いた少年が言う。顎のところで髪を切り揃え、鼻筋の整った利発そうな少年。少し怪訝そうな顔をする彼の後ろから、別の少年が手を伸ばす。
「でも間違いないよね。」
僕のシャツを掴むと引っ張りながら鼻先を寄せて、どうも匂いをかいでいるようだ。他の少年も僕の方へ顔を近づけるので、僕は身の置き場に困って視線をさまよわせる。
「うん、間違いない。同じ匂いがする。」
「君、今年初めてかい?」
少年たちは色付きの液体が入ったコップを片手に、何かを食べながら話している。手元を見ると、今日何度目かに目にするあの緑の小さな巾着があった。
「あ、それ…」
言い掛けた僕の方に目配せすると、少年たちはくすくすと笑う。
「”毒入り金平糖”。」
「君も持ってるじゃないか。」
「空を翔べるのは”訪れの夜”だけだからね。特別さ。」
庭の方から駆けて来た少年が、ほら、と僕に水色の液体が入ったコップを手渡した。僕は成り行きのままそれを受け取って一口含む。薬草酒の馨が気泡の隙間に広がる。
「君、なんだかすごく薄荷の香りが強いね。」
石榴の色のソォダ水を飲んでいる少年が言った。職業柄確かに僕には薄荷の香りが染み付いているとは思う。けれどそれを口にしないうちに、今度は背が低く滑らかな頬をした少年が言う。
「じゃあ、もらった手紙が特別だったんじゃない?いいなあ。」
訳が判らず僕は右手に持っていた手紙を目の前にかざした。すると僕の横にいた背の高い少年が、一際大きな声を上げた。
「うわぁ、すごい!」
「こんなのなかなかもらえないよ!」
少年たちが急にざわめいた。
「包み紙も綺麗な色だなあ。僕のなんてご覧の通り、こんな小さなただの瓶だよ。」
「こっちなんて蝋引きの紙で包んだだけだったぜ、今年は僕はちょっと外れだ。」
そう言って彼らが見せ合っているものは、おそらく今日、僕らが配ったあの差出人のない手紙と思われた。外れと言いながらも少年たちはとても嬉しそうで、何か楽しいことを待っている独特の輝きをその睛に宿している。

そのとき、不意に音楽が止んだ。少年たちはぴたりと会話を止め、一斉に空を見上げる。いよいよだな、そう囁き合って、彼らはそれぞれに手にした「グラス」を見つめた。包装を解き、封を開ける準備をしている。最初に僕の肩を叩いた利発そうな少年が、ほら、早く、と僕を急かす。僕は迷った。そもそもこれは僕のものではなく、この学校に届いたものなのだ。とはいえどうやらこの手紙は、今日のこの祭りのために送られたように思われた。今この瞬間に開けなければ意味がない、そういうものなのではないだろうか。僕は逡巡して、曖昧で歯切れの悪い疑問を投げる。
「でも、差出人も判らないのに…」

「何言ってるのさ。」
「差出人なんて決まってるじゃないか。」

『セカイだよ。』

誰かの声がそう呟いた。
少年たちはもう封を解きに入っているが、視線は僕の手元に注がれている。皆おそらく、この魅力的な包みの中のグラスが解かれるところを見たいのだろう。さあ、と、僕は促されるままに手紙の包装を解いた。薄紙に包まれて出てきた硝子の瓶は封蝋で閉じられて、中にあるその結晶は澄んできらめき、解放されるのを待っている。硝子のベポライザーを弄んでいた少年が、ポケットから何かを取り出す。それは星の模様の入った燐寸の箱だった。彼は白い指でその燐寸に火をつけると、封蝋に近づけた。
封は瞬く間に溶け落ち、結晶はその火を得てゆらりと輪郭を崩す。強い薄荷の香りが立ち込めた。

瞬間、星屑が弾けた。
小さな火花のようなおれんじと、透き通るような透明の光が網膜に焼き付く。

その光がたなびきながら空へ消えていく中、不思議な感覚が響く。
それは音のない音楽だった。
綺羅々々と偏光する光が降り注ぐような、微かにひやりとして煌く、この季節の光と風のような音色(ねいろ)。

薄荷の香りを覆い尽くすように、どこかで覚えた甘いような緑いような薫りがあたりに満ちる。僕は何の馨だろうとぼんやり思いながら、目を閉じてその音と馨とに暫し酔い痴れた。
綺羅の音色が止んだ頃、僕はゆっくりと目を開けた。見渡すと校舎もランタンの灯りも、少年たちの姿も消え、広場はがらんどうになっていた。驚きのあまり声を上げた僕は、幾度も首を巡らせて周囲を見たが、何処を探しても、校舎も、ランタンも、少年たちの痕跡さえなかった。ここへ辿り着いたときと違うことといえば、広場を囲む木々に柔らかなおれんじ色の、星を集めたような小さな小さな花たちが零れ咲いていることだった。

全てが消え去ったその広場で、僕は呆然と立ち尽くした。
一体何が起こったのだろう。
天空に唯一変わらず残る円い月を見上げて、僕は胸のポケットに手をやった。そこには確かに畳んだ紙の感触がある。それを取り出し、月の光で確かめる。

―――嗚呼、なんで気づかなかったんだろう。

僕はその包みを開けて思わず息を吐いた。
蝋引きのその茶色い紙の上には、金木犀の花がはらはらと置かれていたのである。
そうだ、この甘いような緑いような香りは、紛れもない、金木犀の香りだったじゃないか。

『毒入り金平糖だよ。』

くすくすと笑う彼らの顔を思い浮かべながら、僕も思わず笑った。
本当に、この街は不思議ときらめきに満ちた万華鏡のようで、全く僕を飽きさせない。
明日は一体どんな顔を見せてくれるんだろう。

僕は手の中に残った舶来のものらしい葡萄色の紙と、「毒入り金平糖」をもう一度丁寧に畳んで胸ポケットに仕舞った。空っぽになった鞄を右の肩に掛け直し、靴紐をしっかり結んで立ち上がる。
さあ、寮に帰ろう。そして大人たちには内緒で、寝台に入ってから皆でこの星のカケラを山分けしよう。

今夜は僕たちも空を翔ぶ夢が視られるだろうか。

走り出す僕の頬を、秋を告げる「セカイからの便り」が掠めた。

了。