百段階段の怪~六区・十三階楼調査記~


わたしは伊佐崎八葉(いさざきやつは)という。浄書を生業としているが、何の因果か帝都勅命軍・第零番隊、通称「霊課」の雇われ軍人をやっている。否、雇われですらない、非常勤である。傭兵といえば手練れのようだが、実際にはは舶来の言葉でいうところの「アルバイト軍人」である。
何故そんなことになったかというと、ある日突然視えてほしくないものが「視える」ようになってしまったからなのだが。

「どうしたんです? 八葉さん。そんな苦虫を噛み潰したような顔して」

のほほんとしたその声の主に視線を送る。真っ先に目に入るのは帝都に於いては珍しい金色の髪だ。しかも長く癖があるので余計に目に立つ。ひょろりと細いが思いの外高い上背に木綿の薄い外套をひっかけて、髪を隠すためなのか、申し訳程度に頭の上に鳥打帽を被っている。例えるならば頭に殻はかぶっているが尾を隠し忘れたひよこである。眼鏡でやや紛れてはいるが、異様な黄緑の光を持つ睛が、空から落ち始めた夜の足元に浮いている。

こいつこそがその、「何の因果か」の、因果の元凶である。

「……おまえの顔を見たおかげで噛み潰す苦虫が一ダースに増えた気分だ」

わたしは眉を顰めて応える。

「嗚呼面倒くさい。お国の命とはいえ、何故アルバイト風情のわたしが「怪異」の調査報告などせねばならないのか」

「それはたいへん。さっさと仕事(バイト)を終わらせてその苦虫を駆除しないといけないですね」

しかも何故こいつと一緒なのか。わたしにとってはこいつこそが元凶であり、危険分子であり、最も面倒な相手であるというのに。

「おまえを先に駆除した方が効率的に、かつ永続的に苦虫を駆除できるんだがな」

「ひどいなあ、僕、ちゃんとボディーガードとしては役に立ってるじゃないですか~」

間延びした緊張感のない語尾に苛つくが、確かにこいつは護衛としては優秀なのである。特に、対・怪異となれば尚のことだ。

こいつはヒトの形をしているが、ヒトではなく怪異である。本人曰く「獏」、ユメを喰らうバケモノだ。この街では霊や物の怪による現象や、その本体そのものを総じて「怪異」と呼ぶ。そして軍では実体のないものを「魂(こん)」、実体のあるものを「魄(はく)」と分けている。
魂魄(こんぱく)という言葉があるが、前者は精神、後者は肉体に宿るものをあらわす。実体のない前者は幽霊や残留思念を指し、こいつは後者、実体を持つ、所謂妖怪・物の怪の類になる。
わたしはこいつと接触したおかげで、突然そういった異界のものが「視える」体質になってしまった。おまけに「対抗する」、「祓い」の力まで微弱ながら発現してしまったため、法の定めるところに則って帝都勅命軍への臨時登録を余儀なくされたのである。怪異の多いこの街では、「祓い」の力は国の財産に帰属するのだ。

しかし奴の言によれば、この祓魔の能力は元々の血筋だという。かつて「ユメ」の力を魔を滅することに使っていた一族がいたとかで、わたしにはその血が流れているらしい。幼い頃に両親を事故でなくしているわたしには、己の系譜のことなど今更知る由もないのだが。

「八葉さん」

獏が再び呼びかける。煉瓦を擦る靴底の音が止まる。

「ほら、現場に着きましたよ。うわぁ、夜に見るとなかなかの風情ですねえ。
——帝都の観光名所にして、その高さゆえに自殺の名所でもある、第六区名物、十三階楼」

その言葉に目を上げると眼前の黄昏の中には、瓦斯灯では及び切らぬほどの高さで闇に輪郭を半分溶かした塔が、その異容を示して聳えていた。

 


軍に報告された「怪異」のあらましはこうである。

【十三階楼にある「百段階段」の段数が「増える」という。増えた階段を踏んだ者は怪異に襲われる。いくつかの噂では、階段で「振り返った者」は死、もしくは行方不明になっているとも。生きて戻った者が現れたが、恐怖に怯えてまともな証言が取れないらしい。そしてその、「まともでない証言」が今回の調査の実質的な根拠となっている。】

わたしはその書類を畳んで溜息をついた。

「都市伝説と紛う出来過ぎた舞台設定だな、実に夏向きだ」

十三階楼は、六区に建てられたこの国初の高層ビルである。帝都でも数少ないエレベーターと、その高さを活かした展望台が目玉だが、他にも人形館あり、食事処あり、土産物を売る店もあり、小さいが劇場・寄席ありと、観光名所に娯楽施設としては申し分ない内容である。
実際の階層は十二階なのだが、帝都の人間は昔ながらの気質で験を担いで「四」、死に繋がる「四」の数字を嫌うため、三階の次は四階ではなく五階になっている。三階から五階は中央にあるエレベーターの周りが高い吹き抜けになっており、エレベーターを囲む形で緩やかな螺旋状の階段がある。これが百段あるというので「百段階段」という。此処で起きている何らかの怪異について現地を調査せよ、というのが今回の仕事の内容なのだが……舞台設定が出来過ぎていて、正直文筆に携わる人間の端くれとしては眉唾としか言いようがない。

「カストリ雑誌くらいしか喰いつかないレベルのネタだな」

「とはいえ、実際被害が出ているわけでしょう?」

「酔って幻覚でも見た輩が足を滑らせて転落、というのが真相だろう。階段が増えるだの、行方不明だのは尾ひれというやつなんじゃないか」

書類を振りながら延々毒吐くわたしを見て、獏はとうとう笑い出した。

「まあ、軍の上役の皆さんも、そう思うからアルバイト風情に調査を任せたってことでしょうね」

腕を組んで斜めに傾けた首でこちらを見下ろす、人を小馬鹿にしたような奴の物言いに内心でむっとする。こいつの言葉にではなく、自分も全くそのように思うからこそ腹が立つのだが。

「まあまあ、どうせ”異常ナシ”って書くだけの簡単お仕事なんですから、さっさと終わらせて、お給金で美味しいものでも食べましょうよ」

物の怪のくせに極楽蜻蛉のような言を放って、獏は先に立って進む。わたしは獏の背中に揺れる月の色の髪を見ながら、深く息を吐いた。こいつのこういう鷹揚なところには時々助けられる。物事を難しく細かく考えたがるわたしにはない気楽さだ。まあ、妖魔というやつは人より圧倒的に寿命が長いものだというから、人とは考え方も時間の概念も違うのだろうが。

 


それにしても夜、人のいないこの十三階楼はなかなかに異様である。受付にいた守衛は書類を確認した後、判を捺すなり奥に引っ込んでしまったので、案内もいない。そりゃぁ人死にが出るという噂の場所に、こんな時間に来たがる物好きなどそうそういまいとも思うが。
何故夜になったかと言うと、昼間は観光客がいるので調査はお断り、閉館後にしてくれ、というお達しだったからだ。鳴り物入りで建てたこの建物も、元手の掛かりが多すぎて経営は火の車…ということらしい。そこへのこの怪異の噂である、十三階楼の経営陣もだが、貴重な帝都の名所でもあるわけだし、国も放っておくわけにもいかなかったのだろう。獏の言うとおり、「調査をした」という事実と「異常なし」というお墨付きがあればいいだけなのだ。

 

エレベーターは止まっているので階段で三階まで上がり、噂の百段階段の麓にたどり着く。電気も瓦斯も不要なヨルガ式の常夜灯しか点いていない螺旋階段は薄青の暗がりに沈んで、無限に続くような錯覚を覚えさせる。円状の壁に沿って回り込む石組みの境界線に感じる錯視の歪み、上へと巻き取られてゆく吹き抜けは音も魂も吸い込んで行くようだ。

「仕方ない、さっさと片付けるか」

呟いて足を一歩階段に上げようとしたところを、獏が遮る。

「僕が先に行きます。八葉さんは、二段離れて段数を数えながらついてきてもらえますか? だって噂だと階段、増えるんでしょう? 僕も数えますけど、残りの段数が明瞭に見えたところで、ふたりで段数の答え合わせした方がいいと思うんですよね」

なるほど。こいつにしては珍しく建設的な意見を出す。

「それもそうだ。それじゃあわたしが先に行こう」

頷いて先に行こうとすると、獏は何故か動かぬまま、組んだ腕の片方を口元にあててこちらをじっと見る。微妙な笑い方である。

「何か不都合があるのか? 一応これはわたしの仕事なのだし、わたしが先に立つのが道理だろう」

「いや、構いませんけど……こんな暗いところでふたりっきりで、僕に無防備に背中見せちゃっていいんですか? 僕、何するかわかりませんよ?」

うぐっ、と、予想外のところを突かれて思わずわたしは詰まった。そうなのだ、こいつは味方でもあるが、同時にわたしにとっての天敵でもあるのである。

「~~~~~……わかった、先に行け」

「へいっ、合点承知の助!」

江戸っ子の物言いで応える物の怪に文化的違和感を感じながらも、考えてみれば、こいつはわたしなどよりよほど古くからこの土地に棲んでいるのだから、古い文化が身についているのは当たり前か、と思い直す。
物の怪、バケモノ、妖怪などと人は呼ぶが、生物としてとらえるならば、今暮らしている帝都の住人たちよりよほど先住の民なのだ。

 


一段、二段…
かつん、かつんと冷たく硬い階段を靴底が叩く音だけが響く。ヨルガらんぷの青白い灯が時折ぶれて影を滲ませる。

十五、十六…

薄闇に研ぎ澄まされた耳が、ふたり分の衣擦れの音と微かな呼吸音を捉える。衣擦れの音というのは風が笹の葉をゆする音に似ているのだな、などと頭の片隅で考える。

三十二、三十三…

かつん、かつん。変わらぬ靴音が響く。光の届かぬ隅にまで目を配るが、怪異らしき影や気配はない。

四十九、五十…

こんな環境ではヨルガ式の灯りにときどき起きるという幻の投影、幻像現象が起きれば、それを怪異と勘違いするものも出るだろう。いや、だが事故は開館中に起きているという話だ。こんなよく出来た光景の中ではないはずなのだが。

六十七、六十八…

白んだ石に映るヨルガの淡い灯りは月光のようで、何かの挿絵で見た古い遺跡を思わせた。こんな美しいところに出るものなら、きっと美しい怪異なのではないか。美しいものは美しいからこそ恐ろしいと、ローレライにも、ウンディーネにも、ラナンシーの伝承にもある。美しさに魅せられた人間の魂を持って行く、というのだ。それは魂を獲られてもいいと思うほどの美であり、抗えない魅力なのだろう。何故人というのは無条件に美とその隣にある闇に魅かれるのだろうか。それとも人が魅かれる闇に後から美という名を与えただけなのだろうか。

「八葉さん」

獏の声がわたしを思考の世界から引き戻す。目を上げれば手のひらだけがこちらに向けられ、動きを制している。その背中に「なんだ」と応える。

「今、何段目ですか」

「八十九段だが…」

言いかけて、わたしはその先を飲んだ。獏とわたしの間にある段差は二段である。奴の先にある段数はわたしからは影になって明瞭には見えないが、その声に映った緊張が、事態の異様を感じさせた。

「僕の先にはあと10段あります。計算…合いませんね」

増えた、ということだ。ざわりと頬が粟立つ。まさか、ただの都市伝説ではなかったというのか? 心に走る危機感に脚を引き直す。周囲をもう一度見渡したが変化は読み取れない。何処にいる? 何がいる?

「八葉さん、はそのまま、前方をしっかり見張っていてください、お願いします」

そう言うと、獏の肩が動いた。明らかに、こちらへ向けて。

「おい、まさかおまえ…振り返ったらどうなるかわからないんだぞ!?」

「でもこの事態じゃ、振り返らないと調査にならないじゃないですか」

「それはそうだが…おい、待て、振り返るな」

「まあ僕、バケモノですし、僕の方が”あっち側”に親しいわけですから、僕が振り返った方が安全率高いと思うんですよね」

「何を言ってるんだ、おまえ、正気か? いや馬鹿か!」

「ひどいなあ。まあそれはこの際どっちでもいいので、八葉さんは前方、ちゃんと確認しててくださいね、原因が前方にあるかもしれないし、振り返っちゃうと僕、前は見えないんで」
「じゃ、よろしく頼みます」

「やめろ…振り返るな!!」

振り向く獏の外套を掴んで押し留めようとしたが間に合わない。目の端を、振り返りざま揺れる金色の髪の残像が過ぎて行く。駄目だ。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!

 

——なーんちゃって。

あははははは、引っかかりましたー?」

「いや~、八葉さん、超本気で心配してくれてるじゃないですかー。わ~、なんか嬉しいな~。僕、てっきり八葉さんに嫌われてると思ってたので、今すっごく幸せかも」

いつもと変わらぬどころか、いつもよりテンションの高い声で明るく笑う目の前の男を見ているうちに、状況が 飲み込めてきた。要するに わたしは。

こいつに騙されたのだ。

「……貴様」

二の句が唇から離れる前に脚が出た。段差二段に身長差もあって、蹴りは獏の向う脛あたりに決まった。

「痛っ…いきなり何するんですか~」

「どの口が言うかこの人外妖怪魑魅魍魎! おまえにはやはり心というものはないのだな!」

「いや~、せっかくこんなシチュエイションだから、夏の風物詩っていうか、男女ふたり肝試し的な何かにしてみようかと僕なりにですね」

「死ね。今すぐ行方不明にでもなれ。なんならここからあの世へ突き飛ばしてやるぞ」

「えーいやいやいやいや暴力反対ですよ~」

「だいたい仕事中に何を遊んでるんだおまえは…」

「でも」
「理由はわかりましたよ」

わたしの言葉を、獏の言葉が制する。

「こいつです」

目の前に親指と人差し指でつまんだ何かを差し出す。ヨルガ灯の明かりに照らすと、薄緑に透ける薄翅蜉蝣のような、しかし虫ではなく葉脈だけで構成された植物のような、そんなものがそこにはあった。

「割とよく見かける共存型の…ヒトにわかりやすく例えると、宿り木みたいなやつなんですけど。こいつ、共存したものの意識を視覚化して見せる習性があるんです。といっても、こいつ自体は大した力も害もないです。ヒトには根付きませんし。
そこのヨルガ灯についてました。こんな土もないところじゃ他になかったんでしょうね。全然育ってないし、すぐ枯れちゃうと思いますけど。」

「コレが視せていたのは、たぶんこの建物自体に溜まった意識と記憶です。自殺の名所云々もありますけど、これだけ人が集まったら、しかも六区なんて土地柄もありますし、いろいろよくない感情やらが渦巻いててもおかしくないですよ。だから、たまたまコイツと波長が合っちゃったんじゃないですかね、その、おかしくなっちゃったって人。まあ、どんな恐ろしいものを視たのか、ヒトのことはバケモノの僕にはわかりませんけど」

「階段が増える云々も、これが視せた軽微な幻覚ということか」

「でしょうね。幻覚酔いした人が倒れたりはしたかもしれませんけど、資料を見る限りその、”まともな証言が取れない人”って人以外は確認取れてないわけですし、貴方の言うとおり、大きな尾ひれってやつでしょうね」

わたしはまた、今日何度目かの溜息をついた。見上げる回廊にヨルガ灯の光が溢れている。

「全く…幽霊の正体見たり枯れ尾花…だな」

目の前には十三階楼の、五階ロビーが広がっていた。

 


翌日、第二区の帝都勅命軍・零課に赴き、調査報告書を提出した。

「おお~、調べりゃ出てくるもんだな~、やるな新人アルバイト。優秀優秀」

などと上司は無責任に笑った。無精髭にだらしなく前釦を開けた皺だらけの軍服、咥えた紙巻き煙草も乱雑にポケットにでも突っ込んでいたのであろう、輪郭が歪んでいる。さすが「霊課」の隊長、まともな軍人の容貌ではない。しかしその後に洩れた、

「ご苦労さん、危ない仕事をさせたな」

という言葉には心が感じられた。笑うと妙に人懐こく雰囲気が崩れるあたりに下町の匂いがする。思ったよりはまともな人なのかもしれない。

報告書と一緒に、採取した怪異—-暫定で「尾花」と名前をつけておいたが—-も提出した。植物のようなものだというので、瓶の中に土を入れて布で蓋をするという、標本のような状態になってしまったが、枯らしてしまうのは忍びなかった。六区のあのあたりから土がなくなってしまったのは、我々ヒトの勝手なのだ。

 

手続きを終えて零課のある軍舎の門を出ると、向かいの公園の煉瓦塀の前に見知った顔があった。金色の髪に鳥打帽、鉄の柵に腰をかけて、猫背気味に座る細長い外套姿。しっぽのはみ出たひよこのような男である。

「今回は助かった。感謝する」

誰もがそれを都市伝説だ眉唾だと思い込んで危険と考えなかったが、噂がもし噂どおりのものであったなら、最悪死ぬかもしれない仕事だったのだ。自分ですらその危険性を端から疑ってすらいなかった。実際にそこにいたのは小さな怪異だったが、太刀打ちできないものが潜んでいたかもしれない可能性を考えると、改めて寒気がする。
獏は眼鏡ごしに黄緑の目を細めて笑った。

「最初に言ったでしょう。獏というのは世に言われているとおり、主な栄養源はユメなので、貴方に死なれると僕、食いっぱぐれ余生一直線なんですよ。普通の人間のユメ如きじゃ、食ってもあんまり腹の足しにならないんですよね」

そう言われても、何が違うのかよくわからない。何せわたしは人間で、ユメなぞという実体のない物を食うという概念すらない。

「うーん、普通の人間のユメって微弱すぎてスカスカなんですよね。例えて言うなら味のないメレンゲみたいな感じですかね」

「確かにそれは…積極的に食べたいものでははないな…」

「それに較べると、貴方の一族は生まれつきそこらへんの人間とはユメの質が違うので。夢是の血族らしき人間はこのへんではもう長いこと見ないし、だから、貴方には生きててもらわないと僕が困るんです」

「つまりわたしは家畜か。ぞっとしない話だな」

「そうですね、貴方が死ぬときは丸ごといただこうと思ってます。僕、雑食なんで」

「その雑食という言葉は、生物学的な意味で受け取っていいのか?」

「そういうことになりますね」

「主食はユメだが草食で肉食か。主食が抽象的なものの割には、変なところで人間ぽいんだな。まあ魄ということは実体があるのだから、肉体の維持も必要なのは道理か」

「あれ? 意外な反応ですね。僕、今、”ヒトも食いますよ”って、言ったんですけど?」

「ヒトだって鶏や豚や魚を食うじゃないか。捕食対象がヒトであるからという理由で、食うための殺生を悪だと断じるのは筋に合わないだろう。
それに…ヒトはヒトを殺す、どうでもいい理由で、利己的に。そっちの方がよほど悪だと思うがな」

「はー…そう来ましたか。面白いなあ。あれ、なんか僕、ますます八葉さんのこと好きになっちゃいました」

「迷惑な話だな」

「うわー、相変わらずつれないですねえ…傷つくな~」

「おい、給金で美味しい物を食べるとか言ってなかったか? 雑食なら人の食事も摂れるんだろう? 行くぞ」

「……ええ、そうですね」

言って、わたしは歩き出した。遠くに見える二区の先にある繁華街には、夜を飾る瓦斯灯の灯が点り始めていた。

=了=

薄野原の密会

帝都四区の外れも外れ、見渡すうちには高く薄芒の生い茂るばかり、遠くには暮れ方の空に沈みかけた山影の滲み、何処からか虫の聲が微かに聴こゆる、そんな夏の名残を纏った葉月の中秋に、老齢の男がひとり、薄を分けて歩く姿があった。
民家とてないこんな野の原に一体誰を訪ねるのか、男は片手に酒の瓶を持っている。遅い歩みながらも迷うことなく進んでいた男は、貝殻細工のような薄い白い月が、わずかばかり開けた土の上にさしかかるあたりで立ち止まった。
おぅい、と、薄野原に向かって声を掛ける。
すると、月に照らされた花穂の影から、ひとりの女が立ち現れた。

長い長い黒髪した、美しい、それは美しい女である。こんな野の原の最中にあって、女は汚れひとつない公家風の小袿に緋袴つけて、薄絹の被衣を両の手にかざしている。透ける紗の縁から見えるその女の目は、緋袴の色に劣らぬ鮮やかな赤であった。
女は人ならざる紅の目を細め莞爾と微笑むと、被衣で覆った口元から真綿のような聲を発した。

あらあら、これはこれは。
お珍しいお客様だこと、とんとご無沙汰でございましたなあ。
あんまりお顔を見ないので、どこかでとうにおっ死んでいらっしゃるものと思うところでおざりましたよ。

そんな顔をするなって?
どんな顔をしていると仰せで?
淋しくなんぞございませんでしたよ。

機嫌直しの手土産? ああ、ご酒でございますか。
そりゃァ賢明でございますね、妾(わし)の出す酒は、ほれそこの、緑色した沼の水やもしれませんからねえ。ふふふ。
まァ、それ、そこにお座りになって。

女が示す場所にはいつの間にやら緋毛氈が敷かれ、漆塗りの折敷が置かれていた。女が月を映す黒漆の盆の上に手をかざすと、返した掌には赤い硝子を切子にした盃が現れる。細い手首を透かす夏の袿がさらさらと鳴る。

今宵の身装?
なァに、御前の足音と匂いがしましたから、御前のお好みに合わせたまでのこと。むくつけき男の姿より、この方が宜しうございましょう? それとも目許涼けき美しい青年か、幼き童女の方が御意に適うてございましたか?
まァ、相変わらずお世辞がお上手で。御前のそのお口は一体どこからそんな言葉を汲んでいらせられるのやら。

会うたび違う顔貌と仰せになる?
御前、物忘れが酷うなられましたなあ、この姿でお会いするのは三度目でございますよ。ああ、召し物は違うておりますが。こんな綺麗な秋月の晩には、古の上臈の衣も風雅で宜しうございましょう? ほれ、この袿などは紗で出来ておりますから、よく肌を紗して……
ああ全く御前は揶揄い甲斐のないお人でおざりますなあ、そう何でも彼でも面白がられちゃァ、こちらは興醒めというもの。真に昔からお変わりない。

ようございますよ、こんな佳い月、佳い風の夜、まずはせっかくお持ち頂いたご酒でも一献頂戴いたしましょう。

おおこれは馨しい、天の甘露、高天原に生う生命の木、蜜の果実の雫の如。
夜の高殿におわしゃる孤高の女神、常蛾様にも一献捧げ奉る。

女はそう言うと、盃の酒を天へと撒いた。小さな珠雫が月の光を返して水晶のように瞬く。男は空いた盃に再び酒を注ぐ。馨しい吟醸の香が薄の原を潤す。女は細い指で男の盃に天露を返した。

妾の姿でございますか?
なんとまあ懐かしい話を持ち出される。そうそう、最初にお会いしたときは、確かに妾も童子の姿でございましたな。あれはもう何十年前のことでございましょう。
お育ちのよさそうな坊が一人で山野など歩いていたものだから、ついつい揶揄ってみたくなったのでございますよ。同じ年頃の人間の子供の振りして近づいて、驚かせて泣かせてやろうと思うておったに、その坊ときたらすっかり面白がって笑うばかり。しかも帰りたくないと駄々こねる始末。
ましてやその童がまさか翌日も、それから何度も、何年も何十年も、わざわざこんなところまで来るとは思いもよりませなんだがなァ。
ああ、こんな昔の話をするのは お互い歳を取った証拠でございますねえ。

御前こそ、最初にお会いしたときは、まだ膝小僧出した童だったじゃあございませんか。桜色の頬した顔から、夏の若緑のような映え出ずる盛りを過ぎて、すっかり穣りも豊かにご立派になられたと思うたら、もうお頭に雪が降って、ヒトの季節の移り変わりというものは真に速うございますねえ。

わしはとうに時間に置き去られてしもうて、何十年か百年か…え?おまえさんはいつまでも変わらず美しい? およしになってくださいましな。褒めたところで妾から出ゆるは所詮木っ葉、まやかしのみにござりますよ。

ええ、いいえ、御前はちぃとも変わってなぞおられませんよ。出会った頃と全く変わらぬ、やんちゃな少年のまま。好奇心が旺盛で、人の話なんぞなァんにも聞いておられなくって、ちょっと目を離すと何処へでも飛んで行ってしまわれる。
そういえばあのときも、ほれ、西の沢に見慣れぬ色の透ける魚がおったと、小滝の脇の小さな崖を下って……脚を滑らせて落ちたと思うたら、戯画のように折れ枝にひっかかっておられて……こちらは心底肝を冷やしたというに、御前ときたら面白かったもう一回やるなどと上機嫌で。魚は魚で水に流れた絹を見間違うただけだし、真にまァ……

え? 何ですか、急に話が変わって……

ああ、以前に話していらした物書きの先生のことでおざりますか。相変わらずお気に入りでいらせられるご様子。足腰弱って山野の歩みがきつぅなったとはいえ、長の付き合いというに、近年沙汰も減って侘しさをかこつのこの身からすると、妬けるお話でありいすなあ。

……自分が死んだらその青年が酒を持って伝えに来るだろうからよろしく?
厭ですよ、御前、縁起でもない。
だいたい御前は殺したって死にゃァしませんよ。
そうそう、猫も百年生きれば化生となると申します、いっそ御前もそのまま化物になって、妾と一緒に此処で面白おかしく楽しく過ごすってのは如何でおざりますか?

は? それもよい?
全くこのお方は……
ええ、ええ、御前なら、此岸にあろうと彼岸へ渡ろうと極楽蜻蛉にかわりなし、何処へ行っても楽しくやれましょうよ。

ああ、もうお帰りでございますか?
夜風もだいぶん冷たくなって参りましたしね、ご老体には障りましょう。ホホ、では次は燗のご酒でもご用意しておきましょうねえ。今度は晩秋の月の晩にでも…え?

はァ、最後に訊きたいことがある? 最後ってなァなんですか、全く。え? 改まって急にまた…はいはい、何でございましょう?
ずっとずっと気になっていた? 勿体つけずに疾くお言いなさいまし。

え? 妾が本当は男か女かどっちかって?

ふふ、ああ、そう、そういうことでございますか。
……何なら御前、今から直に確かめてみなさるか?

ふ、ふふふふ、ほほほほ。
ああ、御前のそんな狼狽したお顔は初めて見ましたよ。
長の付き合い、あれやこれやと幾度化かしても驚いてさえもらえませなんだが、今宵此処に至って漸う少しばかり溜飲が下がりました。

え? それで結局どっちなのかって?

……自分の本当の姿など、とうの昔に忘れてしまいいした。

=了=

【ヨルガ文庫】シュガープラム、コンフェイトー

その日は朝からなんとなく不思議な日だった。
朝起きて、外に出たときから、いつもより大気が綺羅々々と偏光して視えるような気がしたり、何となく鼻先をくすぐる空気や、木綿のシャツの袖をよぎる風の手触りも違うような、そんな気がする日だった。


僕の仕事場はポストオフィス。判りやすく言えば郵便局。手紙を届けるのが僕の仕事だ。手紙を配達するポストマンはたいがい皆僕のような少年で、学校に行かせてくれるような家や両親がない代わりに、階段の軋む木造建築の寮と、同い年くらいの気の置けない仲間たちがいる。僕にとってはこの仲間たちが家族みたいなものだし、旧時代的で古臭い木造の寮だって、口煩い母親や堅苦しい学校に較べたらむしろ棲みやすい、天国ってものだと思う。

今日は僕は早番。朝も陽が昇る頃から寝台(ベッド)を抜けると、簡素な食事が用意された食堂で硬いパンと豆のスープをお腹に放り込んで、花の香りがするお茶を飲んだら早々に寮を出る。
今日のシャツは白い木綿の長袖。蝉たちがけたたましく鳴いて地面に濃い影が落ち、緑の息吹で息が詰まりそうだった夏ももう終わって、今は一年でいちばん過ごしやすい季節だ。僕たちは重たい鞄を斜めに掛けて帝都を駆けまわるのが仕事だから、中にはまだまだ半袖や袖なしのシャツを着ている奴もいるけど、僕はやっぱり長袖が好きだ。洗いざらした木綿のシャツの袖の中を、さらりとした少し冷たい風が通り抜けていくのはこの季節ならではの贅沢だ。今日選んだこのシャツは取って置きの一枚で、襟先が横に開いて翼をひろげたような形になっている。西洋ではウィングカラーと呼ぶらしい。まさしく翼の意味だ。翼の名を持つこのシャツを着て走ると、風に乗れるような気持ちになる。半端な丈の洋履(ズボン)は動くと膝こぞうが出て、冷えた丸い膝でほんの少しだけ季節を先取りできるのも悪くない。

「おはようございます!」

石造りの天井の高い建物は足音の響き方も寮とは違う。オフィスの大人たちが返す朝の挨拶の中をすり抜け、瑪瑙と大理石でできた階段を駆け降りる。マーブル模様の中に古い時代のイキモノたちの名残を探しつつ、職場についた僕らの最初の仕事はオフィスに集まってきた「手紙」の仕分け。
ひっくるめて全部「手紙」と呼んでるけど、僕らが配るのは紙だけじゃない。どちらかというとメッセージを封じた擬似結晶の方が多い。この擬似結晶の封を解くと、差出人が封じたメッセージがそのまま再現されるというわけだ。難しい文章や文字が書けなくても手紙を送れるし、気持ちも伝わりやすいというので、後々まで残したい文書以外はすっかりこの結晶が主流になっている。
僕らはこの結晶のことを通称「グラス」と呼んでいる。この結晶はヨルガなんかと違って構造が脆く、空気に触れさせておくとどんどん揮発してなくなってしまうため、瓶に詰めたり蝋引きの紙で包んだり、硝子板などで挟んで保護しておく習慣があるからだ。揮発するときに薄荷に似た香りを発するので、オフィスも僕らポストマンも、自然薄荷の香りが染み付いてしまう。

差出人の中には僕らにその「グラス」の保護包装 兼 装飾を頼む人たちもいて、簡単に保護材に放り込まれただけの結晶を、依頼主の要望に応じて趣向を凝らして包むこともある。そういった細かい手仕事はそのまま僕らの収入になっていて、高額ではないけれど、その対価で僕らはときどき好きなものを買ったりできる。だからお礼を込めて…というわけでもないけれど、僕らはみんなついつい競うようにしてそれらのグラスに魅力的な装飾を施そうとする。帝都を走り回っているときに見つけた蝶の翅、綺麗な色の葉っぱ。心を伝える欠片は世界中に溢れている。

「行ってきます!」

僕はオフィスの壁に掛けてある制服代わりの帽子を取ると、その下の名札を返して門を飛び出した。
僕の配達地域は第三区の端っこ、第四区と接するあたり。え?ずいぶん中央から離れた田舎の方の担当だねって?
中央は僕みたいな子供じゃなくて、何年も勤めてる年長者が担当してるんだ。大事な文書が多いからね、間違いがあったらたいへんだろう? 配達を始めたばかりの頃は第三区の中でも区画整理が進んだあたりを回るんだ。碁盤の目みたいで判りやすいし、穏やかな住宅街で安心だからね。仕事に慣れてくると、だんだん複雑な区域に配属されるようになる。第四区みたいな一軒一軒の間が広くて道路もまだちゃんと舗装されてないところや、逆に六区あたりの細道が入り組んだ迷路みたいな街。僕はこの仕事を始めて三年目、やっと四区に足が届くようになった、まだまだ「ぺーぺー」なんだよ。でも、そのうち僕ももっと複雑な街に配属されて、もっといろんなものを眺めながら走るんだ。こうやって毎日帝都を駆け巡っているけれど、同じ場所を走ったって同じ風景なんてひとつもない、日々違う顔を見せてくれるこの街は僕をちっとも飽きさせない、僕の大好きな箱庭だ。


わずかにひんやりとした風の中を心地よく走りながら、慣れたルートでどんどん手紙をポストに落としていく。第三区も端っこの方まで来ると家の区画も大きさも外観もバラバラで、郵便受けのデザインも様々だ。第三区の真ん中あたりはみんな同じような形の家で、集合住宅なんかは入り口に箱が並んでいるだけなので、判りやすいかわりに楽しみは少ない。
それにしても今日はなんだか手紙が多い。しかも差出人のない、小さなグラスがいつもより目立つ。
「なんだろう、どこかのお店がまとめて出してるのかなあ。」
それにしては包みも統一されておらず、共通していることといえば装飾がほとんどなく、妙に素っ気無いことくらい。
へんなの、と、僕は独り言を呟きながら、前庭のある小さな家の飛び石を踏んで玄関扉へ向かう。この家は門構えのところではなくて、玄関の硝子戸の脇に郵便受けがあるのだ。ひとつ飛ばしで御影石の畳を蹴っていると、不意に横から声がした。
「あ、その帽子。じゃあ手紙だね?有難う、待ってたんだ。」
首だけで振り向いて見ると、年の頃は僕と同じくらいか少し上か、洋装の少年が庭先に立っていた。さして高さのない木に寄り添って、少年は僕と似た白いシャツに黒い半洋履(ズボン)を履いている。腰のところには小さな袋を下げていた。濃い緑の、片手で握れるくらいの巾着は中に何か入っているようで、底の方がまあるく膨らんで、紐は心地よく張っている。ビー玉とか、鉱石とか、どこかで拾った木の実とか、何かお気に入りのものでも入れているのだろう。
僕がどうも、と片手で帽子を上げてから挨拶すると、彼はこちらへ向かって歩を進めた。低い垣根越しに僕と向かいあう。
「差出人がないんだけど…」
僕は瑠璃色の瓶に封をしただけのその「グラス」を差し出す。瓶の首につけられた、宛先を書いた未晒しの紙が小さく揺れている。
「うん、大丈夫。判ってるから。」
少年は片手を伸べてそのメッセージを受け取った。僕はそれを見て、ふと、そういえばこの家に僕と同い年くらいのこんな子がいたっけか、と思ったのだが、彼が本当に嬉しそうに微笑んで、有難う、ともう一度僕に言ったので、急に照れくさくなって、そんな疑問は上書きされてしまった。結局気の利いたいらえを思いつけないまま、僕は、じゃあ、と右手を振ると踵を返す。そうだ、今日は「手紙」の数がいつもより多いのだ。あまり油を売ってはいられない。午前の分の配達を終えて少しは減ったとはいえ、まだずっしりと重い鞄を軽く左手で押さえながら、僕はいつもの道順に戻った。


明るく澄んでいた陽射しの色はやや傾いて鈍さを帯び、空気も少しばかり肌寒く感じられてきた。三区も端の方になると家々の間隔が広いので、思いのほか時間を食ってしまったみたいだ。このあたりはもうほとんど第四区との境目、家もまばらになって、代わりに緑が増える。風景はすっかり田舎だ。こんな末端までは配達でも稀にしか来ないので、さすがの僕でもこのへんの道や家は正確には憶えていない。
残りも片手で足りるほどになった鞄の中身を手で探りながら、目当ての家に向かう。古い平屋がこの先にあったはずだ。

垣というより野放図に伸びた木々に覆われて鬱蒼と暗いその家は、長年風雨にさらされてすっかり黒くなめされた板壁に蔦を這わせて佇んでいる。真夏はきっともっと緑が濃くて、ここだけ影に塗り潰されたようになっていただろう。まるで廃屋のような、幽霊屋敷のような体である。この地域に配属されてそろそろ一年になるけれど、ここに誰かが住んでいるなんて知らなかった。
郵便受けを探して木立の陰になった玄関を覗き込むと、不意に軽く袖を引かれた。驚いて声を上げそうになった僕は、弾かれたように一歩退く。振り向くと、そこには少年が立っていた。少年、というよりもまだ子供。僕よりも四つ五つは年下だろう。この古い木造の家には似つかわしくなく、西洋の服を着ていた。
どこから出て来たのだろう、中庭だろうか。玄関の引き戸は閉じられたまま動く気配もない。白いシャツに黒い半洋履(ズボン)、襟に小さな星の徽章がついている。僕の袖を掴んでいる手首には、濃い緑の小さな袋を提げていた。この袋、そういえばさっきも見た気がする。
「君、この家の子?」
そう問いかけると、少年は僕を見上げたまま、黙って頷いた。心細そうな、今にも泣き出しそうな顔をしている。家の人がまだ帰ってこなくて、中に入れないのだろうか。
「僕、手紙を届けに来たんだ。これ、君のお家の人の名前だよね?」
僕はなるべく柔らかい声でそう言うと、少年にその手紙を見せた。蝋引きの紙で包まれ、麻の紐で括られただけのその簡素な包みには、小さなラベルが貼られている。少年はその手紙を目にした瞬間、染め替えたかのようにぱあっと明るい表情になった。飛びつくように両手で茶色い包みを掴むと、祈るような仕種でそれを目の前に掲げる。
「有難う、有難う!僕、これを待ってたんだ。」
「どんどんお日さまが低くなって、でも僕のところだけちっとも届かなくて、僕、もう来ないんじゃないかって…」
最後の方の言葉は詰まって掻き消え、澄んだ睛には僅かに涙を浮かべている。そんなに心待ちにするほど大事な、しかも今日中に届かなくてはいけない手紙だったのか。僕は彼のその様子を見て少しばかり申し訳なくなり、片膝を地面につけて腰を落とすと、小さな頭を撫でた。
「遅くなっちゃってごめんよ、今日はちょっと手紙が多かったんだ。」
少年は僕のその言葉に、勢いよく首を横に何度も振った。その仕種は以前寮でこっそり飼っていた仔犬を思わせて、僕は思わず微笑んだ。
「有難う、お兄さん。これ、ちょっとだけどお礼にあげる。」
少年は手首につけていた緑の小さな包みから何かを取り出すと、きょろきょろと自分の手や服を見回していたが、思いついたように手紙を包んでいた蝋引きの紙の外側の一枚を剥がし、その紙に載せて僕に差し出した。
「内緒だよ。」
少年の手の中にあるそれは金平糖だった。柔らかなおれんじ色をした、小さな小さな星の粒が折り重なっている。そのときふっと覚えたような、甘いような緑(あお)いような香りが鼻を掠めたが、何の香りか思い出せないうちに散じてしまった。
少年は満面の笑顔で僕がそれを受け取るのを待っている。僕はちょっと迷ったが、有難う、とお礼を言い、紙ごと受け取ると零さぬように畳んで胸のポケットに仕舞った。
「じゃあ、僕はもう行くけど、大丈夫?」
先ほどの心細そうな様子にちょっと心配になったが、僕もまだ配達のある身である。あまり長居はできそうにない。彼はそんな僕の気掛かりをよそに、曇りのない顔で僕を見返した。
「うん、僕ももう行くから。」
浮き立つような今にも走り出しそうな彼のつま先を見て、何処に行くのだろう、と思ったけれど、問い返しはせずに僕も立ち上がった。
少年は僕を見送って、有難う、と何度も大きく手を振った。


「このへんのはずなんだけど…」
最後の一通になった手紙を右手に、僕は来たことのない道を走っていた。そろそろ林や山に近くなってきた左右の景色を見回す。空には木の枝の隙間から時折、黄金の女神星が見え隠れしている。三区もここまで来るともう家なんかなさそうなのだが、それでも番地はこの先を示している。
最後に残ったその「グラス」の包みはずいぶん大きくて、手のひらに載せると余るくらいである。外装には星の模様の装飾が施されていた。深い葡萄の色が美しいその紙は舶来のインクを使っているらしい、独特の鮮やかな色合いが地のクラフト紙のおかげで鈍く沈んで大人びた色を発している。こんな手紙をもらったら、僕ならこの紙は破かないように丁寧に丁寧に開けて、大事に畳んで抽斗に仕舞っておくところである。
「これもやっぱり差出人が書いてないや。でも差出人がなくても、こんなキレイな手紙だったら僕なら大歓迎だけど。」
だからこそ、ちょっとくらい遠くても、これを待っている人に早く届けてあげないといけない、僕はそう考えて、そろそろ疲れてきた足を片手でぽんと叩いた。

それにしてももう陽が暮れてきてしまった。これは寮に帰り着く頃には空の色は藍色だろう。急いで届けてしまわないと、このままじゃあ寮の夕食にあぶれてしまう。
食事のことを考えたら、ちょっとばかりお腹がすいた。今日はずいぶん遠くまで、しかも走りづめで来たのだ。お腹も空くというものである。そこで僕はふと、先ほどあの少年からもらった金平糖のことを思い出した。ひとつふたつ齧ったら、疲れが癒えるかもしれない。胸のポケットから蝋引きの紙を取り出し、そっと開く。通常の金平糖より一回り小さなその砂糖の粒は暮れ方の光でつやつやと輝き、まるで星のカケラのようだ。僕はその粒を指先でつまんで口に放り込んだ。甘さだけでなく、ほんの少しの苦味が舌に広がり、どこか不思議な馨が鼻腔を抜ける。金平糖は金平糖だけれど、僕の知っている金平糖とはちょっと違うような気がする。どこの店のお菓子なんだろう。
さりさりと口の中でほどけるその舌触りを楽しみながら、三粒ほどで包みを元に戻す。後は寮に帰ってみんなで分けなくちゃ。こういった珍しいものに対して独り占めは厳禁である。

小休憩を終え、最後の配達に戻ろうと思ったそのときだった。
何処からか、音楽のようなものが聴こえくるのに気がついた。
耳を澄ますとそう遠くないところで確かにその音は鳴っている。木立の奥へ目を凝らしてみると、葉陰を洩れて灯りのようなものが見えた。周囲が暗くなって来たので、灯りが目立つようになったのだろう。
音楽が流れていて、灯りがある。少なくともこの先に人がいるなら、この手紙はきっとそこへ届けるべきものなのだろう。
僕は目的地が見えた喜びで軽くなった膝を高く上げると、邪魔な帽子を空の鞄に突っ込んで再び走り出した。


木立が拓けると、そこには予想外の広い空間があった。そしてその傍らに建っているのは家ではなく、もっと大きな建物だった。白と浅葱で塗り分けられた壁は鎧のように細板を重ねた造りで、西洋風の破風を持つ三角の飾りが見える。三階建てのそれは中央の入り口から左右対称に翼をひろげ、窓には簡素ながら五角を持つ細工が施されていた。こんなところにこんな建物があったなんて、僕は今の今まで知らなかった。
ここが学校ならば、目の前の広場は校庭なのだろう。校舎の窓からは紐が張られて、その紐に幾つものランタンが灯されている。僕が先ほど見た灯りはこのランタンのようだ。灯りの下には横長の机が出され、色とりどりのシロップが入った大きな硝子の容れ物と、重曹(ソォダ)水の瓶が並んでいる。蓄音機からは音楽が流れて、どうやら祭りか縁日の最中らしい。甘いような緑(あお)いような香りが立ち込めたその庭には、たくさんの少年たちが楽しげに集っていた。まだ幼さを残した五、六歳の少年もいれば、僕よりも少し年嵩の子もいる。彼らは皆一様に白いシャツと黒い半洋履(ズボン)を着けていた、きっと制服なのだろう。今日の僕の服装に少し似ている。

取り敢えず僕はこの学校の先生にでもこの手紙を渡してしまおうと思い、目で大人を探してみたのだが、生憎校庭の中にはそれらしい人物が見当たらなかった。どうしたものかと思いながら広場に近づくと、突然、横から肩を叩かれた。

「遅かったじゃないか、遅刻ギリギリだよ。」

広場にいる少年たちは連れ立って僕の元へ駆け寄り、親しげに話し掛けてくる。僕はちょっと面食らって返答を失った。
「あれ、見ない顔だなあ。」
僕の肩を叩いた少年が言う。顎のところで髪を切り揃え、鼻筋の整った利発そうな少年。少し怪訝そうな顔をする彼の後ろから、別の少年が手を伸ばす。
「でも間違いないよね。」
僕のシャツを掴むと引っ張りながら鼻先を寄せて、どうも匂いをかいでいるようだ。他の少年も僕の方へ顔を近づけるので、僕は身の置き場に困って視線をさまよわせる。
「うん、間違いない。同じ匂いがする。」
「君、今年初めてかい?」
少年たちは色付きの液体が入ったコップを片手に、何かを食べながら話している。手元を見ると、今日何度目かに目にするあの緑の小さな巾着があった。
「あ、それ…」
言い掛けた僕の方に目配せすると、少年たちはくすくすと笑う。
「”毒入り金平糖”。」
「君も持ってるじゃないか。」
「空を翔べるのは”訪れの夜”だけだからね。特別さ。」
庭の方から駆けて来た少年が、ほら、と僕に水色の液体が入ったコップを手渡した。僕は成り行きのままそれを受け取って一口含む。薬草酒の馨が気泡の隙間に広がる。
「君、なんだかすごく薄荷の香りが強いね。」
石榴の色のソォダ水を飲んでいる少年が言った。職業柄確かに僕には薄荷の香りが染み付いているとは思う。けれどそれを口にしないうちに、今度は背が低く滑らかな頬をした少年が言う。
「じゃあ、もらった手紙が特別だったんじゃない?いいなあ。」
訳が判らず僕は右手に持っていた手紙を目の前にかざした。すると僕の横にいた背の高い少年が、一際大きな声を上げた。
「うわぁ、すごい!」
「こんなのなかなかもらえないよ!」
少年たちが急にざわめいた。
「包み紙も綺麗な色だなあ。僕のなんてご覧の通り、こんな小さなただの瓶だよ。」
「こっちなんて蝋引きの紙で包んだだけだったぜ、今年は僕はちょっと外れだ。」
そう言って彼らが見せ合っているものは、おそらく今日、僕らが配ったあの差出人のない手紙と思われた。外れと言いながらも少年たちはとても嬉しそうで、何か楽しいことを待っている独特の輝きをその睛に宿している。

そのとき、不意に音楽が止んだ。少年たちはぴたりと会話を止め、一斉に空を見上げる。いよいよだな、そう囁き合って、彼らはそれぞれに手にした「グラス」を見つめた。包装を解き、封を開ける準備をしている。最初に僕の肩を叩いた利発そうな少年が、ほら、早く、と僕を急かす。僕は迷った。そもそもこれは僕のものではなく、この学校に届いたものなのだ。とはいえどうやらこの手紙は、今日のこの祭りのために送られたように思われた。今この瞬間に開けなければ意味がない、そういうものなのではないだろうか。僕は逡巡して、曖昧で歯切れの悪い疑問を投げる。
「でも、差出人も判らないのに…」

「何言ってるのさ。」
「差出人なんて決まってるじゃないか。」

『セカイだよ。』

誰かの声がそう呟いた。
少年たちはもう封を解きに入っているが、視線は僕の手元に注がれている。皆おそらく、この魅力的な包みの中のグラスが解かれるところを見たいのだろう。さあ、と、僕は促されるままに手紙の包装を解いた。薄紙に包まれて出てきた硝子の瓶は封蝋で閉じられて、中にあるその結晶は澄んできらめき、解放されるのを待っている。硝子のベポライザーを弄んでいた少年が、ポケットから何かを取り出す。それは星の模様の入った燐寸の箱だった。彼は白い指でその燐寸に火をつけると、封蝋に近づけた。
封は瞬く間に溶け落ち、結晶はその火を得てゆらりと輪郭を崩す。強い薄荷の香りが立ち込めた。

瞬間、星屑が弾けた。
小さな火花のようなおれんじと、透き通るような透明の光が網膜に焼き付く。

その光がたなびきながら空へ消えていく中、不思議な感覚が響く。
それは音のない音楽だった。
綺羅々々と偏光する光が降り注ぐような、微かにひやりとして煌く、この季節の光と風のような音色(ねいろ)。

薄荷の香りを覆い尽くすように、どこかで覚えた甘いような緑いような薫りがあたりに満ちる。僕は何の馨だろうとぼんやり思いながら、目を閉じてその音と馨とに暫し酔い痴れた。
綺羅の音色が止んだ頃、僕はゆっくりと目を開けた。見渡すと校舎もランタンの灯りも、少年たちの姿も消え、広場はがらんどうになっていた。驚きのあまり声を上げた僕は、幾度も首を巡らせて周囲を見たが、何処を探しても、校舎も、ランタンも、少年たちの痕跡さえなかった。ここへ辿り着いたときと違うことといえば、広場を囲む木々に柔らかなおれんじ色の、星を集めたような小さな小さな花たちが零れ咲いていることだった。

全てが消え去ったその広場で、僕は呆然と立ち尽くした。
一体何が起こったのだろう。
天空に唯一変わらず残る円い月を見上げて、僕は胸のポケットに手をやった。そこには確かに畳んだ紙の感触がある。それを取り出し、月の光で確かめる。

―――嗚呼、なんで気づかなかったんだろう。

僕はその包みを開けて思わず息を吐いた。
蝋引きのその茶色い紙の上には、金木犀の花がはらはらと置かれていたのである。
そうだ、この甘いような緑いような香りは、紛れもない、金木犀の香りだったじゃないか。

『毒入り金平糖だよ。』

くすくすと笑う彼らの顔を思い浮かべながら、僕も思わず笑った。
本当に、この街は不思議ときらめきに満ちた万華鏡のようで、全く僕を飽きさせない。
明日は一体どんな顔を見せてくれるんだろう。

僕は手の中に残った舶来のものらしい葡萄色の紙と、「毒入り金平糖」をもう一度丁寧に畳んで胸ポケットに仕舞った。空っぽになった鞄を右の肩に掛け直し、靴紐をしっかり結んで立ち上がる。
さあ、寮に帰ろう。そして大人たちには内緒で、寝台に入ってから皆でこの星のカケラを山分けしよう。

今夜は僕たちも空を翔ぶ夢が視られるだろうか。

走り出す僕の頬を、秋を告げる「セカイからの便り」が掠めた。

了。

【ヨルガ文庫】微睡む琥珀-前編-

「というわけで、」
「すみません、また電球を買いに来たんですけど。」
つい数日前に訪れた店のカウンターの前で、なんとも所在無く僕はそう呟いた。
店主は黒眼鏡の奥から僕を見返すと、わずかに首を傾げる。
「お渡ししたお品は不良品でございましたか?でしたらたいへん失礼を…」
言いかけたその言葉を慌てて手のひらで遮って、僕は幾度も首を横に振る。
「違います、そうじゃないんです、その、実は」
僕の言葉を待つかの如く、店主は無言のままこちらを見た。カチカチと振り子の揺れる音が漂うその間を刻んでいる。
―――振り子時計の音が四つ鳴った。

*
煙草の煙の匂いとアルコホルの匂い、そして女たちの香水の匂いが入り混じったその空間は、モダンな音楽の生演奏と人たちのさざめき、そして琥珀色の光に満ちている。西洋風に造られた曲線を描く階段、吹き抜けのホールと桟敷を持つこの店は、第二区ではちょっと有名なカフェーである。白と茶色の市松になった床は大理石の光沢を放ち、革張りの長椅子と重い無垢材のテーブルを硝子の洋燈が照らし出す。マホガニーを細緻に彫刻したバーカウンターの奥では、白と黒の西洋服に身を固めた店員が淀みない所作で作業を続けている。ひらりひらりと市松の上を女たちの衣服の裾が舞う。薄物のドレスの妖精の翅のような淡い色彩もあれば、ふき綿も豊かに艶なる花を染めた裾模様もあり、革靴の立てる硬い音と、フェルトの履物の軽い音とが交じり合う。夜の灯りの下のせいか、わずかに薄靄がかかったようなその光景は何処か幻想的に見えた。
「…君、おい、笹木君!」
僕は名前を呼ばれて我に返った。声のした方に顔を向けると、カットグラスを片手に僕を見ている眉の太い男が目に入る。髪に鳥打帽を被った跡がついていて、もともと癖の強い髪の左側だけがさらに一房不自然に跳ねている。僕より頭一つ分くらい顔の位置が低い。
「大丈夫か、笹木君。確りし給えよ、もう酔っちまったのかい?」
男はそう言うと、空いている方の手で灰皿から煙草を取り上げた。紙で巻かれた西洋煙草は煙管とも葉巻とも違う独特の、乾いたような埃に似た薫りがする。
「それともあれか、ダンスフロアをそんなに熱心に見つめているとは、気に入った娘でもいたのかい?」
左右非対称の笑いを口元に浮かべ、男は曲線に細めた上目遣いで僕を見る。眉も見事に曲線だ。
「朴念仁…否、聖人君子の笹木先生のハァトを射止めた女はどの娘だね?」
黒革の長椅子の背に手をついて、ダンスフロアの方へ首を伸ばす男は始終陽気に笑っている。僕から見れば彼の方がむしろ酔っ払いである。
「そんなんじゃありませんよ。」
僕は自分の手の中のグラスを口元に運んだ。刺すような刺激の奥から、薬に似た甘さが舌に広がる。西洋の酒というのもまた独特の味がする。
この男はカストリ雑誌の編集長で石田という。とはいってもライターも兼業していて、その雑誌社の社員は彼ひとりのみという個人雑誌である。その傍らで彼はとある文芸雑誌の編集者も務めており、小柄な見た目に反して非常にバイタリティ溢れる傑物なのだ。彼曰く、宮仕えで稼いだなけなしの金で細々と好きなことをしている、のだそうだが、まだ駆け出しの頃彼に出会った僕は、食うのもやっとといった時分、彼から変名で短文の仕事を貰ったりしていた。恩人でもあり、仕事相手でもあるのだが、気づけば付き合いも長くなり、僕らはなんとなく友人のような間柄になっている。

流れてくる音楽が緩やかなものに変わった。グラスを片手にしたまま湧いてきた欠伸を噛み殺す僕を目敏く認め、石田が口を開く。
「笹木君、なんだか眠そうだな。忙しいのかい?誘って悪かったかな。」
申し訳なさそうに太い眉を「ハ」の字にして僕を覗き込む。この男は本当に他人に対してよく気の回る人格者で、新人の文士にも実に親身に接してくれる。僕は彼のそういうところに心から感謝し、また尊敬もしている。
「ああ、いや、そんなことないです。僕一人じゃあこんな店には来られませんしね、むしろ感謝してます。息抜きにもなりますし。」
全く以って彼に対する謝意は尽きぬのだが、くどくど礼など言えば彼は逆に気を遣うので、その後はただ笑ってみせた。
「息抜き?筆が煮詰まってるのかい?」
しかし石田は今度は心配そうに僕を見上げてくる。真面目なこの人物には、下手に誤魔化すよりも素直に話した方がよさそうだ。
「煮詰まってるというか…まあ進んでないのは確かなんですが。最近切れた電球を買い直したんですけど、どうもこの電球が可怪しくてですね。」
僕がそう言うと、彼は可怪しい?と僕の言葉をなぞった。先を話せということだろう。僕はどう説明すべきかちょっと思案して、天井にある硝子の洋燈を見上げる。
「それが…」

点けるとまるで幻燈機のように幻を見せるのである。

最初は羽虫か何かだと思ったのだ。
仄白い小さな影が視界にちらつくのを見て、羽虫が灯りに寄って来たのだろうと、よく見もせずに手で追い払っていた。虫の数は最初は一匹二匹程度で、その段では気にするでもなかったのだが、時間を追うと徐々に払う回数が増え、どうにも虫が増えたように思われた。そうなると筆に集中できなくなってくる。仕方なく一旦灯りを消し、虫が外に出てくれるのを待って、小さな侵入者の姿が見当たらなくなったのを確認してから窓も閉めたのだが、執筆に戻って暫くするとまた何処からか羽虫は現れる。最初は雲霞か何かと思われたのだが、新たに見た影は蜉蝣くらいの翅周りだった。その大きさの虫に飛びまわられるのはさすがに鬱陶しい。捕まえて外に出そうと一旦筆を置き、薄く透けるその翅の行方を目で追って、初めて気づいたのである。それが虫ではないことに。
かと言って「何」と言い表せる言葉があるわけでもない。それは不思議な形をしたものたちだった。海月のようなものもあれば、なんとも表現し難いものもある。小さいうちはよく見えていなかったが、大きくなってきたらディテイルが判るようになったのだ。明瞭に判別できるものは、西洋の絵本の挿絵に出てくる妖精や、図鑑に載っている古代蟲、或いは鳥に似ているものもあった。恐る恐る捕獲を試みてみたのだが、どうにも掴むことができず、するすると手のひらをすり抜けてしまう。暫くそれらを観察してみたのだが、特に何をしてくるでもなく、ただそこに漂っているだけのものらしい。つまり別に実害があるわけでもなかったのだが、空を舞う奇妙なそれらを無視して原稿用紙に向かえる程には、僕は心頭を滅却し切れなかった。全く修行が足りていない。

「気になっちゃって仕事は手につかないし、おまけに寝不足でこの為体ですよ。」
琥珀色の液体で唇を湿らせながら、僕はあの骨董屋を思い出していた。その電球を買った骨董屋。「夢買イマス」という札を提げ、「シゲンドウ」と名乗った黒尽くめの店主と無口な西洋の少女がいるあの不思議な店。思えばあの店も、入った瞬間、仄白いような不思議な光に満ちていた気がする。時間に置き去られてあの空間だけ時計の螺子が緩やかに解けているような、そんな手触りのする、懐かしい水底のようなあの空気。

「おい、君!」

僕は我知らず翡翠色の小鳥が織り成す回想に沈んでいたのだが、それは突然の声に破られた。

「そこの君だ、書生君、いや、学生ということはないか。」
やたらと滑舌が良いはっきりと通るその声の主の方を振り返って見ると、短髪に銀縁の眼鏡をかけた男が立っていた。一重瞼に三角の目の持ち主で、鼻の線が細い。その割に輪郭線は少年のように滑らかで、顎はきりりと小さく尖っている。少し猛禽類を思わせる顔なのだが、不思議な愛嬌があるように感じた。年の頃はおそらく僕と同じか、一つ二つ上か―――とはいえ僕のそういった目はあまり確かではないので、当たっているかどうかは甚だ疑問なのだが。白いシャツには織による細いストライプの陰翳が浮かび、襟とカフスだけは織り模様のない真っ白な平織で接ぎ替えられている。素人目に見ても仕立ても素材も良いそのシャツと洋履、洋燈の光を映し返すほど磨かれた革の西洋靴。傍らで石田がぎょっとしたような顔で「西王子の…」と呟くのが聴こえたが、乱入してきたその男の声が大きいので続きはよく聴こえなかった。
「その話をもっと詳しく聞かせてくれ給え。」
そう言って男がテーブルについた手に目を向けると、袖口のカフス釦が鈍く光った。純銀らしいそのカフスの面には金色のメダイのようなものが嵌められていて、帝都のシンボルである六晶の紋が刻まれている。中央に勤めている人なのだろう。第二区は中央の隣の区画であるためか、このあたりのカフェーには政治家や中央勤務の人たちが多く通う。新しもの好きの連中や、文化人も多い。出版社も近いせいで編集者や記者たちも集まる。尤も編集者や記者は、酒の席に零れ落ちる様々な情報の方を目当てにしている節もあるのだが。
僕は今の話をどこから話し直していいものやら少し迷ったのだが、最初から話すことにした。とてもじゃないが断れるような勢いではなかったのである。

「ふむ、つまりその骨董屋で買ったヨルガ動力の電球が怪しいわけだな。」
すっかり僕らの席に落着いてしまったその男は、驚くほど熱心に僕の奇妙な話を聞いた。話の都度肯き、問い返し、口の中で何かぶつぶつと呟いては内容を整理して分析しているようだった。
「うーむ、その骨董屋にも興味が尽きないが…」
顎に手をあてて考え込んでいたその男は突然顔を上げて僕の方を見ると、よし、と手を打って、唐突にこんな科白を吐いた。
「君、その電球を僕に譲ってくれないか。」
思わず間抜けな声で問い返しそうになった僕だったが、その前に彼の言葉をもう一度頭の中で反芻する必要を感じた。今、この男は、電球を譲ってくれとそう言った、ように聞こえたが、果たして合っているのか。僕は助けを求めるように石田の方を見たが、石田は僕に輪をかけて呆然と、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で口を開けている。そんな僕らにお構いなく、目の前の男はさらに畳み込む。
「勿論、無償(ただ)とは言わん。十分な対価を支払おう。」
幾らで譲ってくれる?と僕に迫る彼の顔を見て、彼がこの上なく真剣なのだということはよく判った。しかし曰く付きの変な電球なのである。いいのだろうか。僕がそのように問うと、彼は胸を張ってはっきりと答えた。
「だからいいんじゃないか。普通の電球なら何処でも買えるだろう。」
性急な性質らしく、譲ってくれるのかくれないのかと、彼が早々に回答を求めるのを見て、これは譲らないなどと言ったところで聞きはしないだろうなあと僕は半ば諦め気味に息を吐いた。
「構いませんよ。少しだけ使ってしまったので中古ですけど、それで宜しければ。」
僕がそう言った途端、彼の睛が綺羅の如く輝いた。謝辞を述べる満面の笑みを見ていると、誰かに似ているような気がした。誰だろう、と思って記憶を探ると、悪戯好きで利発な故郷の弟の顔が浮かんだ。確かにあれはこういう目をしてよく僕に悪戯を仕掛けたものだった。

僕としても正直あの電球では仕事にならないので、どちらにしても買い換えるしかなかったのだ。置いておいても使えない電球、欲しいという者があるなら、その手に渡した方が物だって幸せな筈である。
「僕は西王子、西王子正史(ニシオウジ・タダフミ)だ。よろしく。」
彼はそう言うとその右手を僕に向かって差し出した。僕も釣られて右手を出しながら、訳のわからぬまま自分の名を名乗る。
「ええと、笹木草一朗(ササキ・ソウイチロウ)です、宜しくお願いしま…」
最後の一文字を言い終える前に、彼、西王子の手が僕の手を掴んだ。と、思うと勢いよく上下に振ったので、最後のその一文字は何処かへ吹っ飛んでしまった。
「よろしく頼む。それにどうやら君はもっとたくさん面白い話を知っていそうじゃないか。是非その話も聞かせてもらいたいんだが…」
銀色の眼鏡がずいと近づいて、空いている手が僕の肩を掴んだ。眼鏡の向こうの睛はやや色素が薄くて瞳孔が目立つ、そんなところもなんとなく猛禽類じみている。しかしこんなに他人に接近されたことがないため、僕は思わず後ろに体を引いた。長椅子の背に張られた革が僕の代わりに、きゅう、と泣くような情けない音を立てた。

「あら、そのお声は西王子先生でいらっしゃいますわね。」

そのとき、艶のある女の声が聴こえた。
例えるならそれは絹の天鵞絨のような質感の声だった。ざわめきと音楽とに満たされた雑多なこの空間の中にあっても、まるで耳に吸い付くように届いた。先ほどまでのこの男の声に較べれば囁きと言ってもいい喋り方だったにも関わらず、その声の前には他のすべての音が無音になったかのようにさえ思われた。
「ああ、君か。」
西王子”先生”と呼ばれた男は振り返ると、彼女に笑い返した。どうやらふたりは知り合いのようである。
「お久しぶりです。お元気でいらっしゃるようで何よりですわ。」
女性は膝下丈のモダンな西洋服を纏い、肩には狐の追い掛けを掛けている。琥珀色の光を映す生成りのその布はジョォゼットだろうか、薄く滑らかに落ちる裾には繊細で複雑なレースとタックの切り嵌め細工が左右非対称(アシンメトリ)に施されている。袖と襟は裾に較べると素っ気無いような断ち切りであるが、そのデザインはかえって袖口から伸びる彼女の腕のたおやかさと首筋の細さを際立たせていた。
「お久しぶりなのは僕の方ではなく、君の方だと思うんだが。」
「まあ、先生。先生らしい仰り様ですわね。ふふ。」
僕は取り敢えず会話の矛先が自分から逸れたことに安堵しながら密かに溜息をついた。変わらず滑舌はいいのだが、先ほどまでよりも落着いて聞こえるこの男の洒脱な受け答えに少しばかり驚きを覚えながら、二人の会話を見守る。
「あら…そのお隣の方…」
すると彼女は気づいたように僕の方に顔を向けた。緩やかに巻かれた長い髪が左の目に掛かるように流れ落ち、右の目は閉じられたままだ。彼女は探るように手のひらを空に向けて彷徨わせた。細く白い指先はたおやかな曲線を描いて、蝶の浮遊を思わせる。そして僕はそのとき初めて、この女性は目が見えないのだということに気づいた。彼女は慣れたようにその手のひらを僕の方へ伸べると、ふと首を傾げた。
「何かしら…とても懐かしい…貴方から懐かしい光を感じますわ。以前にお会いしたことがありましたかしら?」
あるわけがない。僕にこんな美しい女性の知り合いがいたなら、もう少しこれまでの人生が色彩豊かだったと思う。
どう答えたものかと思っていると、西王子が口を挟んだ。
「君、その科白は以前僕にも言わなかったかね?」
女性はにこりと微笑むと、変わらぬ柔らかな声で答えた。
「ええ、申し上げましたわ。西王子先生は先生の周囲にその光が漂って視えますの。でもこちらの方はこの方の中からその光を感じるような…」
耳の奥をふわりと包まれるような声である。それでいて芯のある響き。声色の柔らかい女性<ひと>は微笑みも柔らかいものなのだなあと、そんなことを考えながら見惚れる僕を他所に、彼女は少しばかり驚くような発言をした。
「おふたりは何だか似ていらっしゃるので、旧来のご友人同士なのかと思いましたのよ。」
いえ、たった今ここで会ったばかりです。と、言いたいのだが、ここで口を挟むべきかどうかも判らず、僕は心の中でだけそう呟く。ところが西王子という男はまたもや頓狂な反応をした。
「おお、君、笹木君だったか、やっぱり僕たちは友となる運命にあるようじゃないか!実に喜ばしいことだ。」
晴れやかに笑うこの男は僕から見ればかなり常軌を逸しているのだが、女性の方は一向意に介す風もなく微笑みを崩さない。この女性、この男のこういう態度にもう慣れているのだろうか。それとも僕が狭量なのか。そんなことをぐるぐる考えていると、女性は僕に向かって礼をした。
「笹木様と仰るのね。宜しくお願い致します。」
僕は面喰らってしどろもどろになりながら、先ほどしたように名を名乗る。
「あ、どうも。笹木ソウイチロウです…」
すると意外な方向から肘で突付かれた。石田である。右手を示しながら口だけを動かして何か必死で訴えている。ああ、もしかして握手をしろということか。
僕は右手を差し出した。握った彼女の手は少しだけひやりとして滑らかで、やわらかな手だったにも関わらず何故か僕はその手触りから真珠か磨かれた鉱石を連想した。
同席している石田にも彼女は丁寧に挨拶をし、石田も流暢な受け応えで応じる。石田が僕をずいぶん持ち上げて紹介したので、僕は未来の大作家様ということになってしまった。石田の心遣いはとても有難いのだが、居心地が悪いので正直勘弁して欲しい。自分の書いているものが非常に地味で、世に大当たりするようなものではないことくらい、自分が一番よく知っているつもりである。

会話の途中、気づいたように彼女が顔を上げた。
「あら、休憩に入ってしまいましたのね。急がなくちゃ。」
何のことかと思ったが、彼女が首を少し伸ばして周囲の音を聴いているのに気づいた。先ほどまで流れていた音楽が止んで、楽師たちは思い思いに楽器の手入れをした歓談したりしている。
「私ひとりの足では少し舞台が遠いようですわ。西王子先生、お話中恐縮なのですけれど、私を舞台まで案内して頂けますかしら。」
彼女は西王子に向かって微笑むと手を差し伸べた。風になびく花茎を思わせるその動きはなんとも優雅である。
「それは光栄なお申し出です。喜んでその大役を果たさせて頂きましょう。」
西王子は右手の指を揃え軽く己の胸に引き寄せると、実に洗練された所作で礼をした。男の僕でも見惚れてしまうほど流麗で淀みのない動き。逆の手で彼女の細く白い指を取る。では、と彼女は僕たちに頭を下げ、歩き出した。刺繍された布と滑らかな革を組み合わせたパンプスと、ひらめく裾の影が磨かれた床に映りこむ。彼女が通り過ぎるとき、ふわりと甘いような懐かしいような馨が漂った。
彼女をエスコォトしている西王子は、数歩進んでから思い出したように振り返ると右手を挙げ、
「おい、笹木君、約束だぞ、忘れるなよ!」
と大きな声で叫んだ。他の席の客たちが振り返ったが、西王子は気にする様子もなくまた前を向くと、彼女とともに悠然と歩いて行った。

彼らが去った後、僕はなんだか呆然としてしまって、暫く何を言っていいやら判らなかったのだが、そんな僕の横で石田が盛大に溜まっていた息を吐いた。
「…笹木君、君は本当に変わったものを寄せる体質だなあ。」

遠ざかる二人の背中を見送って、石田は驚きも覚めやらぬ顔で額の汗を拭いながら言う。「ああ、あの綺麗な女性のことですか?」
僕もなんだか喉が渇いて手元のグラスの中身を一気に飲んだ。幸い氷がすっかり溶けてアルコホルは薄まっており、冷たいその液体は程よく僕を落着かせてくれた。
「いや違うって、まあそりゃそっちもそうだが、何より男の方だよ。」
石田は自分のグラスに手酌で酒を注いで氷を放り込む。順序が逆になっているあたり、彼も動揺しているのだろう。まだ殆どストレートであるそれをぐいとあおると、元々低い位置にある背をさらに屈め、声を潜めるようにして言った。
「あの男はな、かの西王子侯爵家の長男だよ。」
気づかなかったのか?と半ば呆れたように僕を見上げながら新しい紙巻煙草に火をつける。「西王子侯爵」と言われれば、若干世事に疎い僕でもさすがにわかる。帝都政府の最上層部、切れ者と噂の高い要も要の人物だ。誰でも顔くらいは新聞で知っている、とんでもない有名人である。しかしそんなお堅い人物のご子息というには、あの男は随分破天荒な性格だった気がするのだが。
「とはいえ変わり者でな、帝大を首席で出るくらいの天才で、しかも西王子家の嫡男だというのに、政治の方には一切関心がなくて、なんと医者になっちまったんだと。医者っていうか研究者か?中央の研究施設、それから三区の大病棟にも籍を置いてるって話だ。」さすが雑誌の編集長、石田はこういったゴシップには恐ろしく詳しい。
僕は先ほど目に留まった彼のシャツの袖口にあったカフスを思い出していた。あの帝都の紋章は、中央機関の関係者に与えられる徽章を加工したものなのだろう。しかも金の徽章ということは、それなりに高い地位の仕事をしているのだ。
石田はいつの間にか先ほどの酒を空けていて、今度は氷を先に入れると咥え煙草のまま再びデキャンタの硝子の蓋に手を掛けた。動揺というより興奮しているのかもしれない。
「ただな、天才とナントカは紙一重って言うだろう?そんな研究をやってるってのに、どうも大のオカルト好きなんだとよ。」
それを聞いて僕はいろんなことを一気に理解した。
政治方面の記事には慎重な筈のこの男が、何故こんなに西王子という人物に詳しいのか、そして彼、西王子が電球や僕の与太話に何故あれほど興味を示したのか。先ほどの石田への賛辞を、「さすが雑誌の編集長」から「さすがカストリ雑誌の編集長」に訂正せねばなるまい。
「噂には聞いていたが、こりゃ噂はほとんど真実だったってことでいいみたいだな。全くそのまま家継いでりゃ爵位持ちだってのに、天才の考えることは凡人にはよく判らんねえ。」
まあいい取材対象ではあるんだがなあ、あの家柄じゃなあ…と石田は独り言のようにぶつぶつと呟いた。確かにカストリ好きのする人物でしかも家柄的にも非常にネタになる。が、しかし、下手に書いても揉み消されるか、悪くすれば藪を突付いて大蛇が出かねないというわけだ。

そのとき、ぽーんとひとつ、ピアノの音が響いた。休憩を挟んでいた舞台で再び演奏が始まるのだろう。目を向けると、舞台の中央には先ほどの女性が佇んでいた。

嗚呼、この店の歌姫だったのか。

音数の少ない静謐な前奏が終わり、彼女の唇が動く。
それはどこまでも柔らかく澄んだ歌声だった。光沢を持ち空気を含んだ上質の絹糸が、螺旋を描いて織られながら天へ昇ってゆくような、柔らかな耳触りと馥郁たる響き。ざわめきに満たされていた店の中もこのときばかりは静まり返り、皆一様に彼女の声に耳を傾けている。僕らも会話を忘れ彼女の歌に聴き入り、彼女の姿に見入った。その立ち姿、わずかに揺れる腕や肩、服の裾の動きまでもが「音楽」だった。
白い指先が描く軌道を追い、僕の目はその指が彼女の白い頬の前をよぎるのを映す。そのとき歌う彼女と目が合った。これだけ距離を置いていて目線など定かではないのだが、それにそもそも彼女は目を瞑じているはずなのだか、何故か僕ははっきりとそう感じたのだ。
刹那、僕は己の足元から彼女の足元へ、澄んで煌く大きな流れを視た。地下深くを流れる川、まるで巨大な水脈のような。否、水ではなく、鉱脈なのかもしれない。水よりももっと硬質で冷たい静謐な光。その仄白い表面(おもて)から、水面に散る微かな飛沫のように光の欠片が跳ねる。その欠片は蛍か羽虫のようにゆらゆらと漂い、光の大河を淡く縁取っている。静止しているのに、流れている。遠いのに、触れそうなほどに近い。あんなにも巨大なのに、どこか幽けく儚い。不思議な、形容し難い淡く美しい光。耳に届くピアノの弦の響きの中に、何処からか硬く澄んだ別の音(ね)が混じる。深い深いところから響くような、それは不思議な音色だった。
足元の床がなくなったような錯覚を覚えて、僕は長椅子の中でバランスを失った。思わず目を閉じて背凭れに倒れこむ。手すりの革張りの手触りを掴んで目を開けてみると、先ほどの幻影は消え、琥珀色の光に満ちた店の風景に戻っていた。市松の床、紳士淑女の群れ、花を模った硝子の電笠。
彼女の一曲目の歌は終わっていた。拍手が高い漆喰の天井に描かれた造り物の円い青空に吸い込まれていく。

「大丈夫か笹木君、居眠りするくらいきついのかい?」
先刻僕が突然背凭れに体を落としたのを居眠りと誤解したのだろう、石田が伺うようにこちらを見た。舞台では演奏は二曲目に移り、歌姫は今度は西洋の言葉で楽を紡いでいる。僕は先ほどの幻影の衝撃から抜けられず、微妙に現実感がないままだ。どう言っていいのか判らないが、とてつもなく大きな、深い、そのくせ懐かしい温かさと――畏怖ろしさを併せ持つ、そんな風景だった。体の中にまだその感覚が残留している。
「石田さん、今…」
そう言いかけたが僕は続きを飲み込んだ。おそらく彼には視えていなかったのだろう。純朴なこの人物のことだ、あんなものを見ていたら真っ先に声を上げているに違いない。
「笹木君、珍しく酔ってるな。顔色がよくないぞ。それとも何だ、また君お得意の怪奇体験てやつか?おお、だったら大歓迎だぞ。飯の種だからな。」
石田は揶揄うように豪快に笑うと、僕の腕を叩いた。
「まあまあ、今日はそろそろ終いにして帰ろうじゃないか。この店の看板、珠玉と謳われる歌姫の歌も聴けたことだし、十分にいい夜だった。」

歌姫の歌が終わる頃、僕らは席を立った。桟敷の手すりから店を見下ろし、そして高い天井を見上げる。漆喰の白い壁は白熱灯の光で薄い琥珀の衣を纏い、床の大理石(マーブル)は市松模様の中に古い時間と地層を抱いて横たわる。客は少しはまばらになったものの、まだ続く夜を楽しんでグラスを傾けている。宵闇の底に淡く灯り、人たちを殻のように抱く、この店そのものがまるで大きな琥珀のようだ。

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【ヨルガ文庫】微睡む琥珀-後編-

「というわけで、」
僕は最初と同じ枕を口にする。物書きとしては実に冴えない言葉選びだが、あまりに唐突なその話の内容を考えると他に何も適正な語句が浮かんでこない。
「先日頂いた電球はその人に譲ってしまったんです。」
しかも西王子氏が僕に渡した対価はまったくもって電球の値段ではなかったのである。こんなに受け取れないと言ってはみたのだが、西王子氏のあの勢いに勝てるわけもなく、僕はわらしべ長者のようにして電球ひとつで予想だにしない値を得てしまったのであった。
「なので今度はちゃんと正しいお値段で買わせて頂こうと思って。」
「それはそれは。いろいろございましたねえ。」
店主は平静を装っているが、喉の奥で明らかに笑いを噛み殺している。そりゃあ笑うしかない珍妙な話だとは思うし、僕もまあ、せめて笑ってもらえた方が、あのドタバタも人を和ませる話の種くらいにはなったと思えて気が紛れるのだが。
店主はカウンターの向こうにある引き出しを大きく開けて、電球の箱を選別している。黒い背中越しに覗き見ると、紺と黄色のパッケージから電球を出し、両手に持って矯めつ眇めつ、左手の物を別の箱のものに取り替えてまた見比べ、それを繰り返しているらしい。どれも同じ商品だと思うのだが、怪現象のことを気にしているのだろうか。僕は何だか申し訳ない気分になってその背中を見つめていたが、彼はそうして選び出したひとつを右手に持って、漸う振り返った。見慣れたヨルガ動力の電球の紙箱がカウンターの硝子の上に置かれる。
「お幾らですか?」
僕は訊ねた。前回は驚かせたお詫びと言われてずいぶんな安価で譲ってもらってしまったのだ。今度こそ正しい対価を払わねば。すると店主は、左様でございますね、とわずかに空を見、そして莞爾としてこう言った。
「ではこの電球、差し上げましょう。」
僕は一瞬耳を疑った。一瞬どころか次の瞬間もその次の瞬間も、店主の返答の意味が判らずに、その言葉を何度も頭の中で反芻してみた。嗚呼、こんなことがつい先日もあったような気がする。微妙に混乱する僕を見て何を勘違いしたものか、彼はさらにこんな句を継いだ。
「大丈夫ですよ、今度は普通の電球…の、筈です。完全な保証は致しかねる部分がございますけれどね、何せ持ち主にも拠りますから、こればかりは。」
相変わらず店主の受け答えは訳が判らない。その科白の意味を考えようとして僕はさらに混乱し、一瞬大元の問題を忘れそうになったが、なんとか踏みとどまった。今は電球の値段が先である。
「え、いえ、ご店主、何を仰ってるんですか。そんな筋の通らない…」
慌てる僕に向かって落着いた様子で微笑すると、店主は語尾を上げてこう言った。
「かわりに是非今度、その西王子家のご長男というお方をお伴れになってご来店頂けると、私どもとしては非常に幸甚なのですが。」
…なるほど。
先の利益を見越しての取引ということか。
思ったより商売上手らしい店主のその言葉に、僕はあーとかうーとか、まるで意味を成さない声を洩らした。何せその話なら、と、そう思ったその瞬間だった。
勢いよく扉の開く音がした。

「おい、笹木君!」

「抜け駆けはなしだぞ、今度行くときは僕も連れて行けと言っただろう!」
よく通る大きな声がして、木の床を西洋靴の硬い革底が叩く音が小気味よく近づいてくる。振り返ると当然のようにその人物が立っていた。
「西王子さ…!」
そうなのだ、僕は今日、この店の近くで彼と待ち合わせをしていたのである。無論それから件の「シゲンドウ」に案内する約束で。ただその前に店主に事情だけでも説明して、買物を済ませておこうと思い、少し早めに立ち寄ったのだった。今だっておそらくまだ待ち合わせの時間にはなっていない…筈なのだが、何故彼が此処にいるのだろう。
「ええと、その、西王子さ」
そして僕がまた最後の一文字を言い終わらないうちに、僕の言葉は西王子氏に遮られた。
「嗚呼鬱陶しい、君、様だのと付けてくれるなよ。生家は僕が選んだ訳じゃないぞ、だから家にくっついているものは僕のものでも何でもない。僕はただの西王子だ。呼び捨ててもらって構わない。」
歯切れのいい滑舌で言い放つと、彼は胸の前で腕を組んで僕を見た。見た、というか、一見するとふんぞり返っているように見える。呼び捨てにてくれというその希望と、それを口にしている彼の有無を言わさぬその態度があまりにも乖離しているので、どう答えていいものか言葉を選びあぐねて口ごもっていると、彼は急にぽんと手を叩いた。
「よし、僕も君を呼び捨てにしよう。だから君も僕を西王子と呼べ。それで問題ない。」
あまりに自信満々な理論の飛躍に僕は最早反論する気を持てなくなり、間抜けな声で可能と思われる範囲の折衷案を唱えてみた。
「いや、あの、せめて最初は”西王子さん”にさせて下さい…」
一応天下の西王子家のご長男である。呼び捨てというのは僕の小市民的精神が耐え切れそうにない。というよりも、まだ知り合ったばかりの相手をいきなり呼び捨てにするのはなかなか難しいと思う。
「硬い男だな、君も。まあいい、そのうち慣れるだろう。長い付き合いになるだろうからな。なあ、笹木!」
どうやらそれもこの人にとっては難しいことではないらしい。お偉い方は育った環境もあるだろうしそういうものなのかと思ったが、西王子氏の目には全く人を見下したような色がなく、ただ人懐こい光があるだけだった。どうもこの人物、物言いや口調は倣岸不遜に見えるが、単純に子供のような好奇心の塊なのかもしれない。
はぁ、と僕が生返事で返すと、氏はそれでも満足げに僕の背中を力強く叩いた。それが予想外で突然だったので、僕は格好のつかないことにちょっとばかり咽た。本当にびっくり箱のような人物である。

「ところで西王子さん、何故此処に?待ち合わせの時間までにはあと十五分以上ありますよ。」
意味もなく自分の木綿の長着の襟元に手をやりながら、先ほど気になったことを問うてみる。すると彼は再び腕を組んで答えた。
「約束の場所にずいぶん早く着いてしまったので、折角だからそこらあたりの路地を片端から歩き回っていたんだ。判り難い路地の奥に店があると言っていただろう?」
先はもう聞かなくても判った。歩き回ってあの「ユメ買イマス」という看板を見つけ、待ちきれずに入ってしまったというのだろう。本当に子供のような人なんだなあと、僕は溜息をつきながらもちょっと笑ってしまった。
「僕の勘も捨てたものではない。一時間以内に見つけ出せたぞ。」
誇らしげに笑う西王子氏の言葉を聞いて僕は耳を疑った。
一時間。一時間も前に来ていたのか。いやそれよりも、一時間で見つけ出せたって、いくら判り難い路地とはいっても、待ち合わせをする筈だった場所は、ここから五分もかからない店なのである。僕は返す言葉に窮して力なく笑うだけだった。しかしそんな僕を尻目に、既に西王子氏はカウンターの中の店主に機嫌よく向き直っている。
「店主、僕が西王子だ、以降よろしく頼む。」
「はい、どうぞご贔屓に。」
破天荒な珍客にもまるで動じることなく、二度目にして既に見慣れてきたあの微笑を浮かべ、店主は右手を胸にあてると悠と頭を下げた。この男の動きは独特の緩やかさを持っていて、一瞬時間が引き伸ばされたような錯覚を覚える。まるでこの店の一部のようだ。しかし西王子氏にしてみればそんなことは気にならないらしい。いや、むしろもっと気になるものがたくさんあるということなのだろう。急かすように店主の方へ身を乗り出した。
「早速だが店主、何か面白いものはあるか?」
その横顔はどう見ても玩具を前にした少年のようである。帝大を首席で出た天才とは思えない。
「左様でございますねえ、お客様はどのようなものをお望みで?」
「面白ければ何でもいい、幻が視えるとか、夜な夜な動き回るとか喋るとか、そういう曰くつきのものは大歓迎だ。」
「それでしたらこれなどは…」
僕はどこまでも自分の道のみを突き進む嵐のような西王子氏と、人を煙に巻くような受け応えで微笑し続ける黒眼鏡の店主のやりとりをぼんやりと聞きながら、思わず額を押さえた。僕が変わったものを寄せる体質だという石田の言葉はどうにも否定し難いらしい。
でも。

まあ、それも悪くはないか。

どうやら僕はこの西王子という男を嫌いにはなれそうにない、そんな気がした。それについては実はこの黒尽くめの骨董屋、シゲンドウも同じなのだが。

知らず溜息をついてから顔を上げると、先日の少女が佇んでいるのが目に入った。金色の波打つ長い髪に、タフタらしき鈍い瑠璃色の西洋服を着ている。華奢な胴に巻かれた幅広のリボンだけが繻子織で、一段明るい光沢を放っていた。眉唾としか思えない商談を楽しげに繰り広げているふたりから離れて、僕は少女に笑いかける。
「やあ、こんにちは。」
なるべく穏やかに明るく笑いかけると、少女は変わらずの無表情で先日と同じように片膝を折って西洋風の挨拶をした。
「いらっしゃい、ませ」
少女は小さな声でそう口にした、ように聴こえた。ややたどたどしさはあるものの、この国の言葉である。鈴の響きに似たその細く美しい声は、彼女の整った容貌にとてもよく似合っていた。
「どうも、お邪魔してます。」
僕はなんだか嬉しくなって、少女に向かって丁寧にお辞儀をしてみた。歳の離れた故郷の妹の世話をしていた頃のような気分だ。腰を屈めて目の高さを合わせ、昔妹にしたようにその頭を撫でる。すると少女は糸で引かれるようにゆっくりと、僕の腕の方に手を伸ばした。手でもつなぐのかな、そう思い僕は額に載せていたてのひらを下げる。細く小さな手が、僕の指を掴んだ。
瞬間、その感触に驚いた。冷やりとした毀れそうな指先だった。歌姫の手も冷やりとしていたが、もう少し血の通っている感覚があった気がする。冷たいというよりも、体温のないような感触。もしやこの子はどこか体でも悪いのだろうか。心配になって思わず少女の顔に目を移すと、翠玉の睛が僕を見上げていた。宝石と見紛う程の深く透き通る碧の色に吸い込まれそうになる。

「笹木君、待たせたな!」

早くも聴き慣れてきたその声に振り返ると、彼はけっこうな大きさの袋を三つも提げていた。その目は僕があの電球を譲ると言ったときと同様に、いや、それ以上に輝いている。それだけの大荷物なら届けてもらえばいいのでは、と言おうとしたが、買ったばかりの玩具を運び屋に預けて大人しく待てるような性質ではあるまい。そう思い直した僕は、敢えてそれについては何も言わず、いいものがたくさん見つかってよかったですね、と笑ってみせた。…つもりなのだが、もしかすると若干引き攣っていたかもしれない。
客を送りにか、店主がカウンターから出てこちらへやってくる。どうも、と僕に目配せをすると、少女の肩に白手袋の手を添えた。少女はするりと螺子が解けるように僕の指を離し、両手を下ろす。
「これの相手をして下さっていたのですね。有難うございます。おかげで商談が捗りました。」
少女はそのまま僕から離れて主の傍らに寄った。彼は彼女の右肩を右手で抱いたまま立っている。カウンターから少し明かりのあるところへ出てきたせいで、そのシャツが黒に限りなく近い紺だということに気づいた。繻子織の明るいリボンの蒼、タフタの鈍いドレスの瑠璃色、そして平織りの紺への濃淡が一枚の絵画のように映る。
西王子氏は何故か少女を見た瞬間、少し怪訝そうな顔をした。その顔のまま暫く彼女を見つめている。何だろう、やはりこの少女、何か病でもあるのだろうか。彼は医者だというから、医者の目で見ると思うところがあるのかもしれない。
西王子氏は店主の方へ目を上げると、また、と一言残して体を扉の方へ向けた。僕もそれに続こうとしたそのとき、
「お客様、お忘れ物ですよ。」
と店主が僕に茶色い小さな紙袋を差し出した。口が折り曲げてあるので中身は見えないが、袋の大きさから見ておそらく先ほどの電球だろう。
「え、でも…」
言いかける僕に彼は袋を押し付けると、もう二つ三つ差し上げてもよいくらいですと小声で囁いた。微笑む店主の様子を見るに、西王子氏はよほど上顧客と認定されたらしい。僕は少し悩んだが、ここまでされて断るのも野暮だろう、すみません有難うございますと、詫びとお礼をごちゃ混ぜにしながら目礼してその袋を受け取った。
今度は普通の電球だといいのだが。

「あ、そういえばご店主」
去り際になって僕はひとつ思い出した。
「あの小鳥はどうしてますか?」
僕をこの店に連れて来た、あの小さく美しい翡翠の小鳥。いるなら挨拶くらいして帰りたい。
「ああ、あれでございますか。」
店主は片手を顎にあてて、やや首を傾けると黒眼鏡の陰から宙を見た。ふっと浅く溜息を吐いて再びこちらへ視線を戻す。
「それが困ったことにまた出掛けておりますよ。」
そう言いながらさして困った様子もなく、シゲンドウはいつものあの顔で微笑んだ。

―――振り子時計の音がゆったりと五つ鳴った。

<了>

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【ヨルガ文庫】兄様の指輪

1

薄曇の空からしんしんと雪が降りがはじめました。
兄様と遠い昔に過ごしたこの小さな枯園は物音ひとつなく、すべてが凍ったよう。
お元気でお過ごしなのでしょうか。
兄様とお逢いできなくなってから、もうどれくらいの時間がたったのでしょう。
私などでは読むことさえ出来ない難しい御本を何冊も束ねて荷造りしていた兄様の背中を、もう何度、思い出したかわかりません。
お手伝い、しましょうかと聞く私に、「指が傷むからいいよ」と言った兄様は、すべておひとりで荷物をおまとめになって、綿雪が降る凍える朝に、お迎えにいらしたつやつやと光る真っ黒な車に乗って、行ってしまわれましたね。
その日を境に、家の者は誰も兄様の話をしなくなりましたわ。
…はじめから娘の私しか、いなかったかのように。
残された兄様の部屋には、がらんどうの本棚や皺ひとつない寝台…もう灯りを燈す事のないランプだけ。
御姿をこんなにも鮮やかに思い出せるのに、目の前にある何もない部屋でひとり佇まねばならなかった私を、兄様はお考えになった事があるのでしょうか。
刃のように迫ってくる寂しさに耐えられず、何度も兄様の机に寄り添って、引き出しをひとつ、またひとつと開けました。
もちろん、そこにはちいさな傷も、インクの染みさえもありません。
もう此処にはいらっしゃらないのだという事実に震えながら、
兄様だけが足りないあの部屋で、おそるおそる握り締めた指輪を見つめました。

…兄様は何時、気が付かれたのでしょうか。
兄様の外套のポケットにあった指輪を私が盗んだことに。
あの日、市松模様のタイルが敷き詰められた玄関で、いつお帰りになるの、と聞いても兄様は答えてくださいませんでした。
この外套を渡してしまったら、兄様は本当に行ってしまう。
そう思いながら、兄様の外套を抱きしめて、立ちすくむしかありませんでした。
その時のことです。
何か小さな物がポケットに入っているのに気が付いたのは。
私は、思わずそっと手を入れて、兄様に気付かれないようにそれを抜き取りました。
靴紐を結び終えた兄様は、お渡しした外套を羽織り、私の額を優しく撫でると行ってしまわれた。
…手のひらに隠した指輪だけを残して。
黒い緩やかな曲線を描いた外套の裾がゆらりゆらりと揺れて、微かに積もった雪に兄様の足跡だけが残っていましたわ。
今でもどうして指輪を盗んでしまったのか、私自身、よくわかりませんの。
ただ、真っ白な雪を灰色に潰しながらやってきたあの車を見た時に、もう、兄様にお会いできないのではないかと思ったからかもしれません。

指輪には、蔦が巻きついた繊細な細工が施され、
深い碧の葉の上に乗っている雨粒ような小さな石がはまっていました。
その石は、今まで私が見たことがない程に美しく、そして儚げで…。

どうして兄様は、この指輪をお持ちだったのだろう。
そう思いながら、兄様の指輪をそっと自分の薬指にはめてみると、まるで、もう随分前から私の指の一部分だったかのよう。
不思議ですけれど、一分の余りもありません。
薬指にある兄様の指輪がきらりきらりと光る度に、兄様がお傍にいらっしゃるように感じたのは私の甘えでしょうか。
私は願いを掛けて、いつか兄様が戻られる日まで、この指輪を外さぬ事を決めました。

2

兄様の夢を見るようになったのは、その晩からのこと。
最初に見た夢は、兄様の部屋の扉を静かに叩くところから始まったのを覚えています。
奥から「入っていいよ」と兄様の声がして、私は静かに扉を開けました。
机に向かって万年筆を持つ兄様がこちらを向いて、ありがとう、と一言私に言うのです。
すると私は手に持っていた本をそっと机に置くのでした。
兄様はもう、振り返る事なく机に向かっていらっしゃいます。
後ろ髪をひかれながらも、そっと兄様の部屋を後にしようとした時、目が覚めたのです。
窓の外を見ると、まだ月が高く上っています。
私、すべてが夢だったことがあまりに悲しくて泣いてしまいましたのよ。
指輪を盗んだ罪の意識から、こんなにも鮮やかに兄様の夢を見たのだろうと最初は思いましたけれど、次の日も、その次の日も、兄様は私の夢に現れました。

そして、気が付いたのです。
兄様の指輪が夢を見せている事に。
夢から覚めると、真夜中の暗闇に、必ず薬指の上でそれは幻灯機のように切なげに光っていましたの。
躊躇いながらも兄様の指輪を唇によせると、ゆらゆらと淡く柔らかな光が私の顔を照らしているのがわかり、兄様が私のことを遠い何処かで想っていてくださっているような気がして、私はゆっくり瞳をとじましたわ。
…兄様に祈るように。

それから何度、兄様の夢を見たことでしょう。
御学友と勉学に励まれる兄様にお声をかける夢、竹刀を持つ黒い袴姿の兄様を影からそっと見守る夢、詰襟の制服を身にまとい角帽をかぶられた凛々しい兄様をお見送りする夢。
あまりに夢が鮮明なので、目が覚めて朝鳴く鳥達の声を聴いても、いつしかこれも夢なのではないかしらと思うようになりましたわ。
夢というにはあまりにも確かに、そこに兄様がいらっしゃる。
兄様にお逢いできるのが本当に嬉しくて、眠るのを心待ちにするようになりました。

ですが不思議なことに、夢の中の私はいつも人目ばかりを気にして兄様に話しかけているのです。
まるで、兄様とお話するのを誰かに禁じられているよう。
そわそわと落ち着きがありません。
兄様はそんな私をいつも気にかけて、事あるごとに私にお声をかけてくださいます。
そう…ある時は小さな紋白蝶をそっと私に見せてくださいましたね。
紋白蝶は兄様の手のひらから柔らかく飛び立つと、私のまわりをひらひらと舞いました。
振りかえると兄様が私を見つめていてくださっている…。
夢の中で、私には兄様がいると強く感じたのを覚えています。

3

でも。
忘れる事ができないあの夢。
あの夢から、何故かすべての歯車が違う方へ回ってゆきました。
兄様はいつもと同じように、私を呼び出したのです。
誰にも気がつかれないように。
兄様は色とりどりの鉱石図が描かれた本を開いて私に見せてくださいました。
隅々まで描写された鉱石がどの頁をめくっても輝いています。
ゆっくりと紙面をめくる兄様の指が優しくて、私は様々な鉱石よりも、兄様の白い爪ばかりを追っていましたわ。
湖の底のような深い碧色の鉱石を綺麗と言って見つめていると、兄様は
「…でも、碧は毒の色だ」と言うのです。
思わず私は兄様を見つめ返しました。
曇り顔をされた兄様の横顔は芙蓉のように美しく、小さく震える睫は羽化する事のない蝶の羽のよう。
現実では見せてくださった事のないお顔でした。

その時、扉の開く音がして振り返ると、母様が立っていらっしゃったのです。
見たこともないような怖いお顔をされていましたわ。
夢とわかっていても、あまりの母様の形相に私は動くことが出来ません。
母様はなにも言わずゆっくりと近づいて、そして、私の頬を叩いたのです。
叩かれた頬が熱く痛む中、驚きと悲しさで母様を見ると、「そんな目で私を見ないで頂戴。その目はあの女を思い出して吐気がするわ」と氷のような冷たい目で私に言い放ちました。

あまりの悪夢に私はどうしたらこの夢から目覚められるのだろうと思った程。
いつも私を優しく抱きしめてくださる母様が、夢の中では般若のようでした。
兄様はただ、なす術もなく、母様に連れられてそのまま部屋を出て行かれましたね。
床には先程まで兄様が見せてくださった鉱石図だけが残されて、毒の色をした鉱石が私を見つめていました。

そのまま、私はぼろぼろの皮製のトランクに、少しばかりの服を詰めて家を出るのです。
ふと壁にある小さな鏡を見ると、夢の中の私の薄い唇だけが見えました。
その唇は、「これでいいの」と声なくゆっくりと動き、硝子のように透明な涙が頬をつたいます。
重い扉を開けると、一面に雪が降り積もっていましたわ。
私はひとり振りかえる事なく、ただ、真っ直ぐに歩いてゆくのです。
目の前のすべてが白い視界だけを見つめて。

4

その悪夢の夜から、毎晩見ていた夢がふつりと途切れて、音だけがきこえる事が多くなりましたの。
見えるのは漆喰のような真っ白な壁と、音だけです。
まるであの雪景色のよう。
かつんかつんと響く様々な靴音やがらがらと何か荷台のようなものが私の耳元までやって来る音、そして…聞き覚えのある声で静かに言い争いをする大人達の話し声。
何日もその白い夢は続き、もう兄様は私の夢に現れては下さらないのかと焦りましたわ。
そして、夢の中で、何故か私は横たわったまま、人形のようにひとりでは動けなくなったのです。
窓から入ってくる風や冷たいシーツの肌触りを俄かに感じて、そこでやっと、夢の中の私は眠っているのだと気が付きました。
眠りながら眠り続ける夢を見ているという奇妙さから、どうしても抜け出したかった私は、兄様、兄様と声にならない不自由さの中、叫び続けました。
あんなにも強く兄様を求めたことはありません。

その時、懐かしい兄様のお声だけが天から降り注ぐように私に話しかけました。
久しぶりに聞くそのお声は、まるで闇に差す一条の光のよう。
私は、本当に嬉しかった。
ですが、それは初めて聞く兄様の懇願するお声だったのです。

「…帝都中を駈けずり回ってやっと見つけ出せた。巡り巡ってこんな形になっていたよ。
これさえ戻れば、意識が戻るかもしれないだろう」

兄様の体温を感じる温かい指がそっと手を握り、私の指に何かをはめたのがわかります。

「早く、一刻も早く目を覚ましておくれ。…頼むから僕を置いていかないでくれ。お願いだ」

そう言った後、小さな嗚咽が聞こえ、兄様が動く事の出来ない私の身体をきつく抱きしめるのがわかりました。

5

目が覚めたその時程、夢の中の自分に嫉妬を感じた事はありません。
大事で仕方がなかった兄様の指輪が、何か言いたげともとれるように淡く微かに光るのを見て恐ろしくなりました。
この夢は誰の夢なのでしょう。
兄様が置いていかないでくれと懇願している…全く考えつかないのです。
指輪の石が、夢で頬を流れた涙のように思えて仕方がありません。
恐怖のあまり、外さないと心に決めていた指輪をゆっくりと外しました。
すると、私の指には、消えないと思う程にくっきりと紅く痕が付いていましたの。

このままでは、指輪に…この誰かの夢に取り込まれてしまうのではないかと、その時初めて気が付いたのです。
私は外した指輪をレースのハンカチに包み、震え怯えながら夜が明けるのを待ちました。
ずっと夢が見らればいいと思っていた時は、あんなにも短く感じた闇が、この時ばかりは終わりがないように感じましたわ。
日が昇り、外が明るくなって、窓から柔らかい朝日がこぼれても、兄様の指輪は弱弱しくではありますが、まだ微かに光を放っています。
…夢は終らないのだとでも言いたげに。
朝露が消え、街の喧噪が聞こえ始める頃、私はハンカチに包んだままの兄様の指輪をおそるおそる鞄に忍ばせて家を出ました。

6

通りですれ違う人たちをよけながら兄様を想いました。
幼い時から、私を慈しんでくださった大事な兄様…
この指輪を荷物にしまわず、外套のポケットに入れていた兄様は、私のあずかり知らぬどんな秘密をお持ちだったのでしょうか。
行き着くあても無いまま、帝都中を彷徨いました。
女学校の隣の公園にある大きな噴水にこの指輪を沈めてしまおうかとも考えましたわ。
けれども、兄様の事を想うと切なくてできません。
第六区まで行き着いて、店が立ち並び様々な物が売られているざわめきの中を何時間もひとり歩きまわるばかりでした。

気が付くと、陽が翳り始めた小さな路地の奥、骨董屋の軒先に「ユメ買イマス」という看板が揺れていました。
ユメという言葉に思わずすい込まれるように扉に手をのばしてしまったのです。
薄暗い店内の硝子ケェスに、時間(とき)に愛された物たちが並び、先程までの喧噪は嘘のように静か。
奥から出てきた黒眼鏡をかけた店主は、私を見て「何かをお探しですか」と声をかけてくださいました。
…長い髪をひとつに束ね、お顔の色がまるで白磁ようだったのを覚えていますわ。
思わず私は、買い取っていただきたいものがありますの、とハンカチに包んだままの指輪を微かに震えながら渡しました。
どうしてそんなことを言ってしまったのでしょう…。
ですが、そうすることでしか、この気持ちを落ち着かせる事は出来ないと思ったのです。

店主は、「拝見させていただきますね」と包みを開くと、
「職人でしか作れない繊細な細工のお品物ですね」
と優しく落ち着いた口調で喋りました。
ですが、店主は指輪をルーペで覗き込みながら、思いもよらないことを私に問うたのです。

「お客様、証紙と写真は一緒に保管してございませんでしたか?」

言われた言葉の意味がわからず、 店主を見つめ返しました。
兄様の署名が必要なのでしょうか…。
盗んだ物とは恥ずかしくて言えずに口ごもる私に、店主は顎を触りながら、

「証紙と写真は失われてしまっている…ではお函もございませんでしょうねえ」と独り言のように呟きました。

こんなにも指輪の出所を店主に追求されるとは思いもよらなかったのです。
羞恥心に、私は口をきつく結んで立ち尽くしましたわ。

ルーペを覗き込んでいた店主は、包んであったハンカチの上に丁寧に指輪を戻しました。
やはり私は、この指輪から逃れることができないのだわ。
そう思った時でした。

「お客様、この指輪に据えてある『これ』は、証紙も写真も失われているようですが、確かに当店がお取り扱いしたもので御座います。慎ましやかな品の良いユメをお持ちですね」

と店主が私を見つめて言ったのです。
私は本当に驚いて、思わず、声を上げしまいましたわ。すると、

「ご存知なく、こちらにお持ち頂いたのですか?それは奇遇でございますね」

と店主は、ゆっくり笑って十露盤をはじきました。
ユメという言葉を反芻しながら、私は兄様の指輪をじっと見つめる事しかできません。
指輪は淡く光ることなく、何事もなかったよう。
もしかしたら、この店主なら兄様の夢をみるからくりをご存知かもしれないと、指輪のそれはなんですの?とおそるおそる尋ねました。
すると店主は、十露盤から目を外して私を見ると、信じがたいことを話し始めたのです。

「どの位前か忘れてしまいましたが、これはある少女のユメで御座います。歳は十五を超えていなかったでしょうか」
と目を細め、そして、

「そういえば、ユメをお買取させて頂いてから暫くして、探しにいらした青年の御客様もいらっしゃいましたね。
確か…妹の夢を取り戻したいのだとおっしゃいまして。すでに他のお客様にお買い上げ頂いていたものですから。
ですが、まさか指輪になっていたとは。…またご来店下さればいいのですが」と。

その時、私はきっと小さく震えたことでしょう。
やはりもう少し考えさせていただきたいの、と店主の手元にある指輪を掴み取り、早足で骨董屋から逃げ去ろうとする事しかできませんでしたわ。
これも夢であるならば、早く目が覚めてほしいと思いながら。
店の奥で「またのご来店をお待ちしております。ご縁がありますように」とぼそりと言う店主の声が聞こえました。
私のあまりに青ざめた表情を見て、きっと不思議に思われた事でしょう。

7

帰り道、かたかたと震える肩を誰にも気がつかれぬよう、俯いたままのびる影を見つめるしかなかった私を兄様は想像できるでしょうか。
この指輪を盗まなければ知りえなかったであろう兄様の秘密が私に重くのしかかってきました。
私は兄様の何を見ていたのでしょう。
あんなにお優しかった私の知っている兄様がもうあまりに遠いのです。

…日が暮れて、月が昇り始めると指輪はまた、兄様を求めるように光り始めましたわ。
あの時程、兄様の腕の中で泣きながら夢を見ずに眠りたいと思ったことはありません。
淡く光る指輪を手に取ると、まだ薄く赤い痕が残る私の薬指にゆっくりと指輪を戻しました。
もう、これ以上、私の兄様を失いたくなかったのです。

私を取り囲む闇は、蒼く、深く、そして終わりなく…。
物音ひとつしない部屋の中で、兄様の指輪の灯火がゆらゆらとした光を天井に映します。
止まらない涙を拭く事も出来ません。
冷えた頬をつたう涙が、ぽたりと兄様の指輪に落ちました。

何故か、何かに呼ばれたような気がして振り返ると、
兄様が「毒の色だ」と仰った、もうある筈のない本が開かれたまま、床に置かれていています。
あの悪夢の時と全く同じように。

…どうして兄様の御本がここにあるのでしょう。
私はまた、夢を見ているのでしょうか。
いいえ、薬指にはいつものように指輪があります。
夢から目覚めた時のように淡く輝いていますもの。
もう、夢なのか現実なのか、そんな事も私にはわからなくなってしまったのでしょうか。
迷路に迷い込んでしまったような恐ろしさに、私は一歩も動く事ができません。

開いたままの窓から入る夜風に、白いカーテンがゆれました。
窓の外を見ると、あったはずの月も星もなく、どこまでが空なのかわからない程の暗闇です。
…ただひとつ、いつのまにか降り始めた雪の白さだけが、光のように明るくて。
さす様な冷たい風に、本の頁がぱらぱらとめくれると、様々な鉱石が風にゆれました。
ふと、淡い櫻色の鉱石図が描かれた頁の間から、一枚の写真がこぼれ落ちたのです。
思わず、私は駆け寄って、その写真を拾いました。
…その写真には、幼い兄様が写っていました。
見たことのないご婦人の足元に無邪気にすがりつきながら、こちらを見つめる可愛らしい兄様…。
その兄様に向かって、言葉では言い表せない程、優しそうな笑みを浮かべるそのご婦人は、
生まれたばかりであろう赤子を大事そうに抱きしめています。
角が丸くなって、古びているセピア色の小さな写真の裏側に、子供の字で書かれた兄様の名前と…もうひとつ、名前が並んでいましたわ。
でも、それは私の名前ではありませんでしたの。

兄様、もし…、私がユメを売ったら、見つけ出してくださいますか。
帝都中を駆け巡りながら、息をきらして、探してはくださるのでしょうか。
指輪の淡い光で写真を見つめていると、ふとそんな事を思いました。
ユメでみた兄様は濁った湖の深い闇のような目をされていた。
兄様が家を出られた理由が、その眼球に秘められていましたのね。

…明日、私はこの指輪を持って参ります。
もう決めましたの。
あの薄暗い骨董屋の店内で、兄様がこの指輪を見つけられる事はあるのでしょうか。

何時の日か、私に兄様がいた事を、誰も知らなくなる日がやってくるのでしょう。
誰ひとりとして、兄様の名を呼ばず、求めず、兄様を想わなくなるのです。
はじめから存在していなかったように。

その時、兄様のことを覚えているのは、ただひとり、私だけですわ。
…兄様どうか、お元気で。

(初出 2010年10月10日 睡晶幻燈夜会 朗読作品)

【ヨルガ通信】ヨルガ文庫「或る遊女の話」 WEBラジオ朗読


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朗読:みとせのりこ
音:弘田佳孝

*
「或る遊女の話」

わっちの生まれた里は、海と山とに挟まれた猫の額のような狭い村で、おまけに土地の痩せた貧しい寒いくにでありんした。わっちの家はそんな村の中でもまァまた貧しくて、上に姉が一人、わっちの下には弟が二人おりんしたが、下の弟は水害による飢饉のときに死んでしまいんした。わっちがその折十にひとっつ足らなくて、父(てて)親は外へ働きに出たっきり帰らず、もう3年は経っておりんしたねえ。いちばん上の姉と母とで他家(よそ)様の仕事を手伝って、それでもらった糧で細々と家族5人、空き腹寄せ合って兎小屋のような家にしがみつくように暮らす毎日でおざりいした。
わっちは母に似たおかげでこォんな田舎くさい顔貌ですけど、姉はわっちと全然似ていなくて、ほんとに美しい人でございましてねえ…え?おまえさんが田舎くさいというなら、姉御様は天女のような人だったろうって?真にお上手でおざりいすなあ、主様は。そう、でも姉は真に、つぎあてだらけの木綿の着物を着ていても、何というのでしょうね、凛として清しい美しさのある…姉でありんすか?今?
姉はもうこの世にはありいせん。カジンハクメイ?どこのおくにの言葉でありんすか?へえ、綺麗な人は儚く早死にするもの、ねえ…さすがものかきの先生はいろんなことご存知でおざりいすなあ。でも、姉は亡くなった…というのも違うような、どう申せばいいんでしょうねえ。

そう、姉は。
水神様に嫁いだのでございますよ。

*
ひどい水害の年でございました。頃は秋も終わりでしたか、空は荒れ、海波は猛り、畑にも出られぬ、猟にも出られぬ、舟で海にも出られぬ中で、山土は水を含んで崩れ、海からは波の壁が時折押し寄せる。山と海とに挟まれた痩せた貧しい小さな村、そんな日々に長く耐えられようはずがありません。人は餓え、水に土に脚をとられてずいぶん亡くなりました。
それでも一向止まぬ水の猛威に、これは水神様のお怒りかとみんな怯えましてね、それで、まァ、神様のお怒りを鎮めるために誰か遣わそうと、そういう話にね、自然なりました。誰を水神様へ遣るのかと、そういう話を大人たちがしているときに、あたしの家の前の椿の木に、時ならぬ紅い花が咲きました。それを見た大人たちは、これは水神様の与えた徴だとそう言いましてね、正直理由なんて何でもよかったんでしょうねぇ、ただうちは貧しくて里の家々に仕事もらっておこぼれで暮らしていたようなもんですから、そう言われちゃァ逆らいようもありません。うちから遣いを出すことに決まりました。

そして雨の泥濘の中、夜の足元も覚束ぬというのに、家には急ぎ村長と土地神様を祀る社の宮司がやって参りました。狭い家の上座に姉を座らせて、長に宮司、母と、日ごろならありえぬ下座から囲んで姉を見上げております。
最早一刻の猶予もならぬ、心を決めてくれぬかと、重苦しいような、それでいて急かすような調子の声が聞こえます。おまえの母や妹弟のことは、末まで村で助けてゆくで心配するでない、とそのように村長が申しますのを、あたしは土間の戸口の筵の陰で息を潜め、そっと聞き耳立てておりました。

実はその折、姉には不釣合いな縁談が持ち込まれておりました。母と姉ふたりしてよく届け物をしておりました隣里の富裕な家から、姉を迎えたいと言われていたのでございます。縁談といっても内々のもの、要するに姉は妾に望まれたのでございますよ。相手は五十に手の届く歳の男でございましたが、母はそれでもこの貧しい里で暮らすよりは、ましてや生贄になるよりはと思ったのでございましょう、姉に必死に縁談の方を勧めたのでございますが、姉は何故か杳として首を縦には振りませんでした。

大人三人下座に置いて、脚を正したまま姉は黙って端座しておりましたが、大人たちの話が途切れると一間を空けて口を開きました。
「富裕な里の資産ある家、その殿方に嫁ぐといっても、それは結局身売りをせよと言うのでございましょう。その家その里の富、そして人の情など、我が身でいつまで購えるものか、末の量れぬ不確かなものでございます。」
「ならばわたしは今この里に威をもて居わす水神様の元へ嫁ぎとうございます。同じ身を売るならばヒトよりも、神にこの身を捧げましょう。その方が村のためにも、親妹弟のためにもなるのではありますまいか。」
姉は水鏡のような声でそう言うと、両の指を膝の前に揃え、静かに頭を垂れました。

「わたくしを、どうぞ水神様の元へお遣りになって下さいまし。」

よう言うてくれたと、村長の爺は感じ入った様子でそう言って、傍らの母にまこと孝行な娘ぞと大きく声をかけました。母はただ俯いて姉の前に手をつき深く、深く頭を下げました。筵の陰から盗み視た母のその肩は震えていましたが、姉は毅然と顔を上げたまま、何を視ているものか全くわかりませんでした。村長を送り出しに母が立ち、姉もそれに続き、あたしは慌てて戸口から退きました。とはいっても小さな小屋、退いたところで他のどこへゆくような部屋もありません。母はただ顔を伏せ息を詰めて長の背に続いておりましたが、姉だけは戸口の横で所在無く佇んでいるあたしに気づきました。姉はあたしをみとめると、あたしの方へ手を伸ばし、笑いかけるようなそぶりをみせました。
「--ちゃん、堪忍ね。」
笑うでもなく泣くでもなく形容のし難い顔をして、そう言いながら姉があたしの髪を撫でたときの、その黒い目の不思議な光を、あたしは生涯忘れることは出来ないでしょう。

そうと決まれば支度は鞠の石段を転がるように進んでゆきました。あまりの手速さにあたしは右往左往するばかり、姉は多くの人に取り囲まれて、我が家の者は蚊帳の外に置かれたように少し離れてそれを見ているしかありませんでした。
あたしは愈々姉が禊に、着替えに向かうと家を発つ段になってもどう声を掛けていいかわからず、おろおろと後ろをついて歩き出しましたが、ふと見遣った窓の外、目についたただ一輪の紅い花、思わずその木の元へ雨の中走り寄り、細い枝を手折ると、姉の背を追ってそれを差し出しました。姉は振り返ってずぶ濡れのあたしの手からその花枝を受け取ると、黙ってにこりと微笑みました。
それが間近で見た姉の最後の顔でございました。

*
そうやってあたしの姉は、十と五つで白絹の花嫁衣裳に包まれ、瑠璃翡翠で飾り立てられた小さな舟に乗せられて、水に流されていきました。あれほど荒れ狂って里を悩ませた荒天が、姉の祝言の夜だけは嘘のように凪いで、夜空にはまるで天人の宝珠の箱を覆したような、満天の星が煌いておりました。水辺に点した篝火の間を縫って、宮司に手をとられ、筵の道を小さな舟まで歩む姉の姿を、あたしは今でも今日のことのように思い出せます。

それはそれは美しい、この世のものとは思われぬ程美しい花嫁姿でございました。この里のどこにこのような贅沢な衣があったものか、真新しい綸子の紋意匠に紅絹裏つけた三尺の長い長い袖振りからは、やはり絹の襦袢が零れておりました。帯の胸元に差した懐剣には白と赤の長い房が揺れ、ふき綿も豊かな重い裾引いて、淡く紅を刷いた白皙の貌に黒髪結った、あたしの姉はまるで水晶か真珠<しらたま>の雫のように、恐ろしいほど静謐に佇んでおりました。嗚呼もう姉はヒトではなくて水神様の伴侶、神の眷属なのだと、あたしは幼い心に遠く誇らしく、そして淋しく姉を感じたのでございました。

けれどどんなに飾り立てても所詮は捨小舟。死出の道行きでございます。
あたしはその舟の、煌びやかなる珠の光、花を模った燈籠の灯りの最後のひとつが遠く波間へ消えるのを見て、初めてそのことに気づいたんでございます。周りを見れば村の人たちは、有り難い有り難いと手を合わせ感謝したその口元にその頬に、自分は難を免れた、そんな安堵を貼り付けていたのでございます。そう、母ですらも深い悲しみといたたまれぬほどの詫びの影に、そのような色をごく僅か、浮かべていたように見えました。
あたしは急に恐ろしくなって、下の弟の手を強く握りました。何にもわからない顔した弟が、「ねえちゃん、いつ帰ってくるの」とあたしに問うのを聴きまして、あたしは子供心に涙を流さぬよう必死で堪えながら、ただ弟の頭を撫でたのでございました。

*
まァ、そんなこともありんしてね。
いろんなことが厭になって、わっちは自分でここへ売られてきたんでおざります。

母は翌年体を壊して帰らぬ人になっちまって、あたしと弟は村を救った生き神様の身内ということで無碍にもできなかったんでしょう、村の家に交代で世話になって育ててもらってはおりんしたけど、なんとも肩身の狭いものでおざりいした。
弟には画の才能が見えんしたので、絵の師匠の元へ弟子入りさせようと思いましてね、それには何かと物要りでおざりましょう、それで。
ここ、吉原に。

ああ、せいせいしいした。わっちにはしょっぱい里の暮らしより、ここ帝都の、花街の暮らしが肌にあっておりんす。同じ籠なら自分の選んだ籠の方が、居心地がいいというものでおざりましょう。

え?
何故そのときわっちが選ばれなかったか?
それはそのときわっちがまだ娘ではなく、子供だったからでありんすよ。
水神様もそんなことで選好みなさるあたり、男のおひとでおざりぃすなあ。

あら、その通りだと仰せになる。主様はずいぶん正直なお方でありんすなあ。
さあさ、話ばかりも野暮というものでおざりましょう。まずはゆるりと一服しなんして。
今度会ったら続きを聞かせて欲しいと? ふふ、さァて、今度話すときァ弟が妹になったり、お里が南のくにになったりするかもしれませんえ。

その話も是非聞きたい?
真に変わったお客さんだこと。主様は人好しでありんすなあ。…でも。

「わっちはそういうお方が、大好きでありんすよ。」

【ヨルガ文庫】翡翠の小鳥

「”夢買イマス”?」
そんな小さな看板がかかっている店の前に僕は今立っている。
買物がてら散歩の途中、翡翠色の小さな鳥を見かけて、その小鳥が何故か僕の周りを飛んでは離れまた現れるものだから、物好きにも追って歩いてしまい、そして気づけば六區の外れ、金糸雀通りの先の、こんな路地まで来てしまったというわけだ。狭い路地に入ったおかげで小鳥も見失い、僕の目の前にはモール硝子の嵌った小さな洋扉があるばかりである。
ついている窓は磨り硝子で、いずれも硝子越しに中を覗くことは出来ない。一体何の店だろうと、看板を探して首を巡らせたのだが、見当たった看板はこの小さな手書きの1枚、「夢買イマス」というわけの判らないものだけだった。上の方に大きめの看板が出ていることは出ているのだが、長年風雨にさらされたらしくすっかり褪色して傷み、文字を判読するのは困難だった。
「うーん…最後の文字は堂か?」
店構えからして雑貨屋か古物やか、そんな感じに見える。一応僕は昨日切れてしまった電球を買うために家を出たのだが、ここで用が足りるだろうか。
「まあ、いいか。」
足りても足りなくても。そう思って僕は店の扉を開けた。正直に言うと、夢を買うというその看板が気になってしまったのだ。

*
その店の中を覗いた瞬間、少し違和感があった。店内は照明が少ないのか薄暗く、そのくせ何か不思議に霞むような光でぼんやりと満ちていた。真珠か鉱石のような鈍い光沢、内から微かに発光しているとでもいえばいいのか、その曖昧な光のせいか少し店内は見通しにくかった。無秩序に並べられた品物のせいで見通しが悪いというのも一番の理由だとは思うのだが。

「いらっしゃいませ。」

男の声がしたのでその方向を見ると、硝子ケースの上にレジスタァがあり、その向こうに黒い眼鏡をかけた男がいた。どうやらこの店の店員、というか店主のようだ。黒い立ち襟の木綿のシャツ、ケースの影になって見えないが、下は洋穿に西洋靴であろう。店内が暗いのと、遠目のせいか年齢が読めない、年嵩にも青年のようにも見える雰囲気の持ち主だった。
ざっと見回すに、どうやらここは骨董屋のようだ。骨董というか、古道具屋という印象である。使い込まれ角のとれた柔らかい曲線、手で磨かれ鈍く円い光沢を持った優しいもの達がそこかしこに横たわって睡んでいる。
店主は客に構うでもなく、黙って本を読んでいる。職業病というやつか、つい人様の読んでいる本が気になって、店主の手元をちらと盗み見た。そのとき黒い表紙の傍らに、何か明るい色のものが見えた。店主の陰になっていてよく見えないのだが、西洋人特有の金色の髪のようだ。
不思議に思ったのと、持ち前の好奇心が手伝ってついついその存在を確認したくなった。商品を見るふりをして立ち位置を変え、店主のいるショウケースに近づく。ケース越しに覗き込んで見ると、それは確かに紛れもなく西洋人の、しかも子供だった。否、子供でも娘でもない、年の頃は十三かそのくらい、少女というのが正しいだろう。長く波打つ金色の髪を肩から背に垂らして、深い緑色の西洋服を着ている。血が通っているのか疑いたくなるような白い頬、睛はその衣服と同じ金に映える深い碧で、整った貌だちと相まってまるで磁器人形そのものだった。
店の光景とあまりに不釣合いなその美しさに気をとられ、いつの間にやら僕は少女を凝視していたらしい、少女と目が合って漸うそのことに気づいた。少女は顔をゆっくり上げると、はっきりと僕を見た。翠玉のような睛がまばたきもせずこちらを見返してくる。
そのとき、ぱさり、と小さな羽の音が耳元を掠めた。我に返ってその羽音の方を見上げると、そこには先ほど見かけた小さな青い鳥の姿があった。
「ああ、すみません、ちょっと目を離した隙に籠から離れてしまいまして。」
店主が気づいたように言うのが聴こえた。どこへ行ったのかと思っておりましたら、帰ってきたんですね、と、そう言う男の方へ首を向けると、店主は少しばかり黒眼鏡をずらして小鳥の姿を目で追っている。
「ああ、この小鳥のことですか。」
「そうです、貴方が今視ているそれのことです。」
僕は無意識に小鳥に向かって指を差し出した。僕は動物やイキモノに懐かれ易い体質らしいので、ついつい習慣で手を出してしまう。とはいえいきなり見知らぬ人間の指にとまったりすることはあるまいと、そう思った僕の予想に反して、翡翠色のその小鳥はいくつかの品物の間を渡りながら移動すると、僕の指の上にふわりと降り立った。まるで質量を感じないかのような、軽い、軽い感触だった。
「貴方、それに触れるんですね。」
「え?」
「ええ、いえ、こちらの話で。ああ、すみません、そのまま。お手数ですがそれをこの、鳥籠に。」
僕は言われるまま指にその鳥を乗せて店主の手元の鳥籠に運んだ。それは真鍮と曲げ木で繊細に細工された美しくも小さな鳥籠で、外国の寺院を模ったような尖塔がついている。ところどころに螺鈿と色硝子の細工が施され、経年の傷みはあるものの、おそらく舶来の品で、たいそうな値のものと思われた。
店主が鳥籠の扉を開けて待っているのへ、小鳥をそっと近づける。小鳥は温和しく僕の手の上から動かず、時折くちばしや長い尾で僕の指を掠めていたが、黒い硝子球のような睛で僕を見上げ、幾度か瞬きすると自ら籠の中へ戻った。
「助かりました、それは私の言うことなどきいてくれませんのでね。私は触ることも出来ませんし。」
そんな気難しい小鳥なのかと僕は鳥籠の中の小さな生き物を見る。黒い睛はこちらへ向けられて、小さな首を傾げる様は愛くるしく、とてもそんな性悪には見えない。
「翡翠<カワセミ>…小瑠璃でもないですよね、ずいぶん小さいし。でも蜂鳥だったらその翔び方はしないしなあ。」
「左様でございますね、そのいずれでもありません。お客様、博識でいらっしゃいますね。」
僕は店主の声を聞き流して鳥籠の中の小鳥を見る。雀よりひとまわりも小さな体に青い美しい羽、黒い睛の縁が僅かに紅い。小さな宝石のようだ。
「何にしてもこんな奇麗な小鳥、初めて見ました。」

「有難う。」

ふいに響いたその一言を、小鳥が喋ったのだと気づくのに僅かの時間が要った。何せ鳥の声とは思えないほど流暢で、女性と紛う美しい声音だったのだ。思わず勘違いして先ほどの金髪の少女の方を見てしまったくらいであるが、少女は先ほどと寸分違わぬ表情のままただ僕を見ていた。
「この小鳥、喋るんですか。」
僕は黒眼鏡の店主に問う。店主は眼鏡を掛けたままの目で僕の方を見ると口元だけで笑った。
「声も聴こえるんですか。いやはや、驚きました。」
僕は店主の受け答えに違和感を覚える。それは実は先ほどからずっと続いていて、なんというか、どうにも微妙に掛け違えたような受け答えに思えた。それを問う言葉を見つけられないまま口ごもっていると、店主は穏やかな声で僕に微笑みながら声をかけた。
「ところで何かお探しで?うちはご覧の通りの骨董屋…というかまあ、古道具屋と言った方が相応しいうだつの上がらぬ店ですが。」
微笑みながら、と言っても、黒眼鏡をしたままなので口元しか見えない。微笑んでいると感じたのはその声の色彩が穏やかで明るかったからだ。
「ああ、実はこの小鳥の後をついてきて、この店を見つけたんです。それで、表の看板に夢買いマスってあったでしょう。あれを見てなんとなく、こう、好奇心で入ってきてしまったんです。すみません。」
「僕、物書きでして…面白そうなものがあるとついつい。」
照れ隠しに頭をかきながらそう付け加えると、店主は二、三度首を縦に振ってそれを受けた。
「ああなるほど、物書きの先生でいらっしゃる。それで鳥にもお詳しかったのですね。お若いのに風流雅人、いずこの尊い方かと思いました。」
流暢なお世辞がつらつらとその口から出るのを聞いて、普段だったら少しばかり腹の立つようなものなのだが、不思議とこの男の口から聞くそれは不快ではなかった。とはいえ事実と異なるものはやはり虚言であるし、それをそのままにしておくのは忍びない。
「よして下さい、花街じゃああるまいし、そんな見え透いた褒め言葉。お恥ずかしい話、ご覧の通りのこの服装<なり>で、食い詰めの貧乏文士ですよ。」
左様でございましたか、ではそういうことに、と、店主はさらりと僕の言葉を受けて流した。それは手慣れた受け答えで、何十年も客商売をしていたかのような印象を与えた。この男、一見若く見える気がするのだが、もしかしたら意外に歳が上なのかもしれない。そんなことを思いながら男を見ていると、彼はこちらを向いて言った。
「けれどお客様、好奇心は猫を殺すとも申します。ユメ買イに、興味がおありですか?」

「夢買い?」

僕は思わず鸚鵡のように問い返す。我ながら先ほどの小鳥の方がよほど賢そうに聴こえるいらえだ。
「そう、ユメ買イです。噂くらい聞いたことはありませんか?ヒトの夢を買う店があると。」
ああ、そういえば。言われて僕はある編集者が持っていたカストリ雑誌の一頁を思い出した。帝都の何処かに夢を買い、そして売る男がいると。地下競売で取引されるそれはたいそうな値のつくもので、しかし買い手も売り手も謎の死を遂げることが多いとか、そんないかにもカストリ好きのしそうな眉唾物のいかがわしい記事だった気がする。
「そんな話を確か雑誌で…でもなんというか、面白半分の都市伝説のような記事だった気が。」
僕が思い出しながら独り言のように呟くと、店主は苦笑して尾ひれがついているようですねえ、と僕の台詞を受けた。
「どんな話になっているのか存じ上げませんが、そんな大したものではありませんよ。ご覧になりますか、ほら、その硝子ケースの中の。」
男はカウンター代わりの陳列台の上にさらに乗っている小さな硝子ケースを指した。客に向かう面は斜めになった造りで、二段の棚板も硝子で出来ている。その中には黒天鵞絨の上に陳列されたグラスマーブル、びいどろの玉があった。
「ビー玉…ですよね。」
僕はそう口に出しながらケースに目を近づける。小さな硝子の球は仔細に見るとひとつひとつの色柄が違い、恐ろしく繊細な手作業で造られたものと思われた。半寸もないその球の中には絹糸よりも細い螺旋が描かれて、さらに周囲を多色の線が囲んでいる。青を基調としたもの、緑と赤と交互に交わったもの、ほとんど透明な中に一筋の白が三日月のように差したもの、粗く斑になったものなど、まるでひとつひとつが完成された世界のように、どれも見ていて飽きない個性を湛えている。
「それが”ユメ”でございますよ。ヒトから抽出したユメの結晶です。」
店主があまりに普通に言うので僕はどう答えていいものか言葉が出なかった。どこまで真実なのか、それとも僕はからかわれているのだろうか。はぁ、などと冴えない生返事をして先を促してみる。
「お気に召したものがあれば、売主の写眞と署名をお見せ致しますよ。」
「そんなものまであるんですか。」
「品物がヒトのユメでございますからねえ、買い手としてはやはり気になりますでしょう。若く美しい女性<にょしょう>のものか、皺紙のような老爺のものかでは、お客様の購買意欲も値への感覚も変わって参りましょうし。通ともなりますとグラスマーブルよりも先に写眞と証紙をご覧になる方もおられるくらいで。」
その理屈も感情も道理だとは思うのだが、そもそも前提からしてこの話は与太なのではないのだろうか。僕はますます判断に困って生返事を繰り返す。店主は白手袋の指でマーブルのひとつをケースから取り出すと、天鵞絨張りのトレイの上にそれを置き、隣に1枚の少し古びた写真を置いた。美しい女性で、どこかで見たことがあるような気がしたが、気のせいだろう、きっと女優か何かに似ているのだ。
「きちんと証紙もお付けしておりますし、贋い物でないことは保証致しますよ。」
店主がにこりと笑う。どうも話が糞高い書画骨董みたいな内容になってきたので、僕は一瞬怯んだ。こういうときの自分の反応は本当に貧乏が染み付いているというか、庶民だなあと思う。だというのに僕ときたら、やはり好奇心が勝ってついつい訊ねてしまうのである。
「なんか偉い先生や職人の書画骨董陶磁器みたいな話になってるんですけど、ちなみにお値段はだいたい如何程なんですか?」
店主は左様でございますね、と僅かに空を見てから算盤を手元に引き寄せる。
「個体差が大きいので一概には言えないのですが。」
そう枕を置いてから、これなどは、とそう言って店主が示した価格を見て、僕は見開いた目が落っこちるかと思うくらいに驚いた。法外な値段だったのである。それから店主はさらにニ、三のグラスマーブルを黒い布の上に置くと、算盤を弾いてみせた。確かにその珠の位置には幅があったのだが、いずれにしても相当な額である。
「いやその、これは庶民にはとても手の出る品物じゃありませんね…。」
僕は空笑いをしながらそんな格好のつかない受け答えをする。店主は顔色ひとつ眉ひとつ変わりなく笑顔のままだ。
「お買い上げ下さるのも好事家の方が殆どのようですしね。」
年月に磨かれた珠をカシャリと鳴らして算盤を右脇に寄せると、店主は黒天鵞絨の上の硝子球にそっと白手袋の手のひらを向けた。その硝子の中に、うっすらと逆さまに店主の指先が映りこむ。
「美しいユメの結晶を枕の下に入れて眠れば、この世のものではない羽化登仙の夢が視られると仰る方もおいでになります。火にくべればさらに強い幻覚が視えるという方も、得難いほど強い恍惚と陶酔があると仰る方もおいでになります。或いはただヒトのユメを幾つも手元に飾ってご満足なさる方もおいでになります。愉しみ方は人それぞれ、様々のようでございますよ。」
白熱灯の蜜色の光を受けてグラスマーブルはその螺旋を揺らすように輝く。とりどりの色を纏う繊い糸のような線の隙間に一瞬ふわりと何かが過ぎったように見えて、僕は思わず視線を迷わせる。その瞬間、店主の眼鏡越しの視線にぶつかった。口元が微笑っている。どうやら僕は観察されていたらしい。僕は先ほどの動揺を気取られたのではないかとちょっとばかり据わりの悪い気分になって、再びグラスマーブルの方へ目を向ける。そしてよせばいいのにまた好奇心でひとつの質問を投げる。
「貴方もそれをご覧になったんですか?」
店主は今度こそ、微かではあるがはっきりと声に出して笑った。声に、というのは正しくない。ふ、と鼻先で僅かに笑みを示した。
「いいえ、私はこのグラスマーブルという物は一向に。それに店の主が自分の店の商品に手をつけてはならないというのは、どこの世界でも共通でございましょう。」
それは全くその通りである。僕は思わず芸もなく、それはその通りで、と、小噺のような相槌を打った。店主に失礼なことを訊いてしまったのではないかと思ったのだが、店主は一向意に介した風もなく、黒天鵞絨のトレイの上から左端のひとつをケースの中に戻した。
「私は他人様のユメという奴にはさして興味がございませんので。だからこの商売をやっていられるとも言えるのでしょうけれども。」
確かにその指先には商品を扱う際の細やかさは感じられるが、執着も何もないような、涼やかで体温の低い手つきと空気に思われた。ふたつ目とみっつ目のグラスマーブルを元通りに置き直し、最後のひとつを丁寧に均等に配置すると、ケースの扉を閉めた。
「とはいえ私にも時折はそのユメに興味が湧く方というのはいらっしゃいますよ。」
店主は今度はくす、と、口の先で微笑した。この男を見ていると、ほとんど声にも出さない微かな笑いのうちであるにも関わらず、人はこんなにもいろいろな微笑を使い分けられるものか、と、そんなことを思う。物書きの僕だが、この男の微笑を全て筆にして描写できるだろうかと、そう己に問えば自信は持てなかった。
「確かに安い品物ではございませんから、私どももこちらからお勧めするようなことはございませんしね。そう、でも。」
店主はそこでふと言葉を切った。少し不思議な間だった。
「買うのは難しくとも、売るのであれば、まあ何方<どなた>でもというわけには参りませんが、貴方でしたら不足はございませんでしょう。」
店主は先ほどより少しばかり柔らかい声で、お客様、と僕に呼びかけた。僕は店主の言葉の意味がいまひとつ飲み込めないまま、声につられて店主の方を見る。
「如何ですか?貴方も貴方のユメをお売りになってみませんか?貴方のユメはとても面白そうです、高値で買い取りますよ。」
ショウケースの上に両の肘をつき、顔の前で指を組んだその男は僕に向かってそんな意外な台詞を吐いた。それがあまりに今までと変わらない口調のままだったので、僕はその言葉の意味を理解するまでに少しばかり時間を食った。

―――僕の、ユメを、買う?

頭の中でその言葉を反芻して、僕はやっと店主の持ち掛けているのが商談なのだということに思い至った。しかも己のユメとやらを商品とした商談である。僕はその瞬間、魂を取引するメフィストフェレスを思い出した。
「何の…」
冗談かと声に出して笑いかけた僕は、その言葉の途中で、黒眼鏡越しの店主の視線に気圧されて声を喪った。店主は僕を見たまま、三日月の形の唇から再び言葉を紡いだ。
「”これ”もどうやら大層貴方に興味があるようだ、珍しい。」
そう言うと店主は僅かに首を自分の左横に向けた。そこにはいつの間にやら先ほどの西洋の少女が立っていて、僕の方を凝っと見ている。きらきらと照明を受けて翠玉の睛は煌き、心なしか表情にも先ほどより高揚がみえる。血の通っていないかのような真っ白な首筋と、のぼりたての月を思わせる金色の髪。少女の腕を包む深い緑の別珍と白いカフス、その先の小さな細い指がゆっくりと差し伸べられる様が僕の睛に吸い付く。

「いや、その、僕、実は切らしてしまった電球を買いに出てきたんですよ。」

気を呑まれそうになった僕は、思わずそう口走った。
そうだ、そうだった。僕は本来の目的を思い出して一気に現実に戻った。おそらく電球から自分の部屋、狭くて雑然とした畳敷きを連想したせいだろう。
「ああ、電球ですか。それでしたら勿論扱っておりますよ。」
店主は莞爾と笑ってそう言った。
骨董の電傘やら洋燈やら扱っておりますので、電球の換えくらいありませんとね。店主は気さくに続ける。そして後ろの棚の抽斗を引いて中を探し始めた。
その背中を見つめながら、僕は気取られぬようなるべく静かに胸に詰まった息を吐く。こんな薄暗い不思議な光の中で、こんな現実離れした少女に見つめられて、こんな怪しい男の話を聞いていたのでは、知らず釣り込まれていてもそれは詮方ない。詮方ないのだが、それにしたって騙され易くていけない。そう心の中で苦笑する僕に向かって、店主は振り返ると変わらぬ口調で言った。
「ヨルガ動力の型でよろしかったですか。」
中身の確認のため、店主は黄色と藍色の商標名が印刷されたその箱を開ける。先の尖った楕円の球に細い細いフィラメントが見える。僕は先ほどのグラスマーブルの螺旋を思い出していた。
店主が示した価格は通常より幾分か安かった。幾分か、と言うか、ずいぶん、というべきだろう。
「脅かしてしまったようなので、お詫びです。」
店主はにこりと微笑んでそうのたまった。やっぱり僕はからかわれていたのか。
「と、いうよりは、これをここまで連れてきてくれたお礼です。貴方のおかげで温和しく籠に戻ってくれましたし、助かりました。」
傍らの鳥籠を目で追って店主が言うのを聞きながら、それも僕の功ではない、と思ったのだが、安価で日用品が買えるのは明日をも知れぬ浮き草仕事の身としては非常に有り難かったので、黙ってその言い値で頂戴することにした。何せ夜の灯りは僕ら物書きにとっては大事な命綱なのだ。
「またお待ちしております。」
店主は隣に立つ少女の髪を軽く撫でながら言った。それにしても無口な子だ、もしかしたらこの国の言語がまだ判らないのかもしれない。とはいえ笑顔は共通だろう。僕は少女に笑いかけると少し腰をかがめて、またね、と挨拶をした。すると彼女は片膝をほんの少し折って礼の姿勢を取った。この国ではあまり見ない礼だ。顔を上げた少女は少しばかり微笑んだように見えたが、それは僕の願望が見せた錯覚なのかもしれない。表情に乏しい子ではあるが、嫌われているわけではないようだ。僕は右手首だけを彼女に向けて振った。
茶色の紙袋を指先でつまんで店を出ようと踵を返した僕は、店に入るときから気になっていたことを思い出した。

「あ、そうだご店主、この店の名は?名は、なんというのですか?」

ああ、と店主は応<いら>えて、そしてゆっくりと言った。

「シゲンドウ、と申します。」

シゲンドウ、どんな文字を書くのだろう。僕がそんなことを考えていると、店主は付け足すように言った。
「もっともそれも人がそう呼んでいるだけで、本当の名前かどうかは定かではないのですがね。まあ、名前など記号でございますから、それで事足りております。」
僕はそろそろこの店主の人を煙に巻くような、少し掛け違えたような物言いに慣れてきて、その台詞については今は深く追求しないことにした。
「シゲンドウ、ですか。有難う、また寄らせてもらいます。」
モール硝子の嵌った洋扉に、入ったときとは逆へ手を掛ける。硝子を透かす日はまだ明るい。店主が頭を下げるのが、閉まる扉の隙間へ消える。

「はい、今後ともどうぞご贔屓に。」

黒ずくめの店主の声が、ふわりと耳に残った。

*
「視える、聴こえる、触れる、か。しかもどうやら本人は当たり前にすぎて無自覚ときている。生まれつきの体質でしょうねえ、あれは。面白い御仁だ。」
店主はカウンター代わりにしている硝子ケースの上に片肘をつくと、顎に指をあててくすくすと笑った。誰かに話し掛けるかのように、店主は続ける。
「判っていてからかいに行ったんですか、それとも彼が気に入ったのかな。」
そして黒い眼鏡を少しずらして鳥籠を見遣った。そこにいた筈の小鳥の姿は見当たらない。かわりに女性がひとり、空の鳥籠を抱いて立っていた。長い黒髪を片側で束ねた若い女で、緋色の襦袢に重ねて翡翠<かわせみ>の縫い取りをした長着をゆるりと纏っている。
「貴方の本体はその籠でしょう、無闇に本体から離れたら拡散してしまいますよ。まあそれはそれでもいいんでしょうけどね、あなた方にとっては大差はないのだろうから。」
女性は何か話しているようで唇を動かしているのだが、その声は聴こえない。
「すみませんが私は耳はあまりよくないんです、目だけは並外れていいんですけどね。」
女性は少し眉を曇らせながら微笑むと、するすると縮んで先ほどの小さな翡翠色の小鳥の姿に変わった。チチ、と小さな鈴を振るような鳴き聲。

彼なら貴方の理解者<トモダチ>になれるんじゃないかと思って。

翡翠の小鳥はそう囀ったのだが、店主の耳にはそれは意味を持った響きとしては届かなかったようだ。店主は美しい歌声ですね、と鳥籠に向かって微笑すると、黒い眼鏡を掛け直した。

【ヨルガ文庫】ヨルガ読みきり小説【SS】

ヨルガ発売から1ヶ月と少しが経過し、皆様の中でもそろそろ「帝都」が馴染みのある街になって参りましたでしょうか。私どもの知らぬ路地、店、人がまだたくさんいるであろう帝都の、その風景を、リスナーの皆様と一緒に散策し、地図を作っていけたら幸いに思っております。

発売日に公開しましたWEBラヂオ「ヨルガ通信」もご好評を頂き、帝都通信社・ヨルガ制作班としては嬉しい限りでした。中でも朗読劇、ショートストーリー(SS)「或るをんなの話」に思いの他多くのご反響を頂きまして、あのような他愛ない風景でも皆様の中により帝都の空気やその感触を、身近に立体的に感じて頂けるのであればと非常に励みになりました。

そこでそのご好評を反映しまして、この度、帝都に纏わる伝聞をひとつ、短文として纏めさせて頂きました。

http://www.tts-products.co.jp/yorlga/info/?p=600

それが本日掲載の「翡翠の小鳥」です。朗読劇「或るをんなの話」でも出て参りました「ユメ買イ」にも纏わる物語となっております。拙い文章ではありますが、帝都の空気、ヨルガの世界をまたより身近に感じ、皆様が帝都を歩く愉しみの契機のひとつとなれば幸甚に存じます。

「ヨルガ文庫」第一回、どうぞお楽しみ下さい。

【ヨルガ通信】「yorlga」発売記念スペシャル企画 WEBラヂオ「ヨルガ通信」


こんばんは。弘田です。アルバム「yorlga」。ついに本日リリースと相成りました。もうお手元には届きましたでしょうか。万華鏡のように幻想的で色彩豊かなサウンドを目指しました。みとせさんの透き通るような歌声を存分に楽しんで頂けたらと思います。リリースと同時にWEBラジオ番組もお届けすることができて本当に嬉しいです。収録曲や制作に関する四方山話が満載ですので、アルバムと一緒にこちらも楽しんで下さい。収録曲は全て「帝都」の中で起こっているエピソードがモチーフになっています。帝都の風景を、そこで生活している人々を妄想しつつ聴いて頂けると、アルバムをより楽しんで頂ける事と思います。

みなさまコンバンハ、みとせのりこです。いよいよ本日「ヨルガ」発売、そしてWEBラヂオ「ヨルガ通信」もオンエア。漸く皆様の感覚に直接触れる形で「帝都」をお届けできます。サイトの上に今まで地図としてあった帝都が、音楽によって、音声によって、貴方の中で実体になりますように。そしてわたしのまだ知らない帝都の路地のひとつを、貴方が見つけてくれますように。貴方が視たその風景を、貴方がわたしに語って聴かせて下さる日が訪れますように。そう願って、このアルバムを、世界を、送り出します。

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