「というわけで、」
「すみません、また電球を買いに来たんですけど。」
つい数日前に訪れた店のカウンターの前で、なんとも所在無く僕はそう呟いた。
店主は黒眼鏡の奥から僕を見返すと、わずかに首を傾げる。
「お渡ししたお品は不良品でございましたか?でしたらたいへん失礼を…」
言いかけたその言葉を慌てて手のひらで遮って、僕は幾度も首を横に振る。
「違います、そうじゃないんです、その、実は」
僕の言葉を待つかの如く、店主は無言のままこちらを見た。カチカチと振り子の揺れる音が漂うその間を刻んでいる。
―――振り子時計の音が四つ鳴った。
*
煙草の煙の匂いとアルコホルの匂い、そして女たちの香水の匂いが入り混じったその空間は、モダンな音楽の生演奏と人たちのさざめき、そして琥珀色の光に満ちている。西洋風に造られた曲線を描く階段、吹き抜けのホールと桟敷を持つこの店は、第二区ではちょっと有名なカフェーである。白と茶色の市松になった床は大理石の光沢を放ち、革張りの長椅子と重い無垢材のテーブルを硝子の洋燈が照らし出す。マホガニーを細緻に彫刻したバーカウンターの奥では、白と黒の西洋服に身を固めた店員が淀みない所作で作業を続けている。ひらりひらりと市松の上を女たちの衣服の裾が舞う。薄物のドレスの妖精の翅のような淡い色彩もあれば、ふき綿も豊かに艶なる花を染めた裾模様もあり、革靴の立てる硬い音と、フェルトの履物の軽い音とが交じり合う。夜の灯りの下のせいか、わずかに薄靄がかかったようなその光景は何処か幻想的に見えた。
「…君、おい、笹木君!」
僕は名前を呼ばれて我に返った。声のした方に顔を向けると、カットグラスを片手に僕を見ている眉の太い男が目に入る。髪に鳥打帽を被った跡がついていて、もともと癖の強い髪の左側だけがさらに一房不自然に跳ねている。僕より頭一つ分くらい顔の位置が低い。
「大丈夫か、笹木君。確りし給えよ、もう酔っちまったのかい?」
男はそう言うと、空いている方の手で灰皿から煙草を取り上げた。紙で巻かれた西洋煙草は煙管とも葉巻とも違う独特の、乾いたような埃に似た薫りがする。
「それともあれか、ダンスフロアをそんなに熱心に見つめているとは、気に入った娘でもいたのかい?」
左右非対称の笑いを口元に浮かべ、男は曲線に細めた上目遣いで僕を見る。眉も見事に曲線だ。
「朴念仁…否、聖人君子の笹木先生のハァトを射止めた女はどの娘だね?」
黒革の長椅子の背に手をついて、ダンスフロアの方へ首を伸ばす男は始終陽気に笑っている。僕から見れば彼の方がむしろ酔っ払いである。
「そんなんじゃありませんよ。」
僕は自分の手の中のグラスを口元に運んだ。刺すような刺激の奥から、薬に似た甘さが舌に広がる。西洋の酒というのもまた独特の味がする。
この男はカストリ雑誌の編集長で石田という。とはいってもライターも兼業していて、その雑誌社の社員は彼ひとりのみという個人雑誌である。その傍らで彼はとある文芸雑誌の編集者も務めており、小柄な見た目に反して非常にバイタリティ溢れる傑物なのだ。彼曰く、宮仕えで稼いだなけなしの金で細々と好きなことをしている、のだそうだが、まだ駆け出しの頃彼に出会った僕は、食うのもやっとといった時分、彼から変名で短文の仕事を貰ったりしていた。恩人でもあり、仕事相手でもあるのだが、気づけば付き合いも長くなり、僕らはなんとなく友人のような間柄になっている。
流れてくる音楽が緩やかなものに変わった。グラスを片手にしたまま湧いてきた欠伸を噛み殺す僕を目敏く認め、石田が口を開く。
「笹木君、なんだか眠そうだな。忙しいのかい?誘って悪かったかな。」
申し訳なさそうに太い眉を「ハ」の字にして僕を覗き込む。この男は本当に他人に対してよく気の回る人格者で、新人の文士にも実に親身に接してくれる。僕は彼のそういうところに心から感謝し、また尊敬もしている。
「ああ、いや、そんなことないです。僕一人じゃあこんな店には来られませんしね、むしろ感謝してます。息抜きにもなりますし。」
全く以って彼に対する謝意は尽きぬのだが、くどくど礼など言えば彼は逆に気を遣うので、その後はただ笑ってみせた。
「息抜き?筆が煮詰まってるのかい?」
しかし石田は今度は心配そうに僕を見上げてくる。真面目なこの人物には、下手に誤魔化すよりも素直に話した方がよさそうだ。
「煮詰まってるというか…まあ進んでないのは確かなんですが。最近切れた電球を買い直したんですけど、どうもこの電球が可怪しくてですね。」
僕がそう言うと、彼は可怪しい?と僕の言葉をなぞった。先を話せということだろう。僕はどう説明すべきかちょっと思案して、天井にある硝子の洋燈を見上げる。
「それが…」
点けるとまるで幻燈機のように幻を見せるのである。
最初は羽虫か何かだと思ったのだ。
仄白い小さな影が視界にちらつくのを見て、羽虫が灯りに寄って来たのだろうと、よく見もせずに手で追い払っていた。虫の数は最初は一匹二匹程度で、その段では気にするでもなかったのだが、時間を追うと徐々に払う回数が増え、どうにも虫が増えたように思われた。そうなると筆に集中できなくなってくる。仕方なく一旦灯りを消し、虫が外に出てくれるのを待って、小さな侵入者の姿が見当たらなくなったのを確認してから窓も閉めたのだが、執筆に戻って暫くするとまた何処からか羽虫は現れる。最初は雲霞か何かと思われたのだが、新たに見た影は蜉蝣くらいの翅周りだった。その大きさの虫に飛びまわられるのはさすがに鬱陶しい。捕まえて外に出そうと一旦筆を置き、薄く透けるその翅の行方を目で追って、初めて気づいたのである。それが虫ではないことに。
かと言って「何」と言い表せる言葉があるわけでもない。それは不思議な形をしたものたちだった。海月のようなものもあれば、なんとも表現し難いものもある。小さいうちはよく見えていなかったが、大きくなってきたらディテイルが判るようになったのだ。明瞭に判別できるものは、西洋の絵本の挿絵に出てくる妖精や、図鑑に載っている古代蟲、或いは鳥に似ているものもあった。恐る恐る捕獲を試みてみたのだが、どうにも掴むことができず、するすると手のひらをすり抜けてしまう。暫くそれらを観察してみたのだが、特に何をしてくるでもなく、ただそこに漂っているだけのものらしい。つまり別に実害があるわけでもなかったのだが、空を舞う奇妙なそれらを無視して原稿用紙に向かえる程には、僕は心頭を滅却し切れなかった。全く修行が足りていない。
「気になっちゃって仕事は手につかないし、おまけに寝不足でこの為体ですよ。」
琥珀色の液体で唇を湿らせながら、僕はあの骨董屋を思い出していた。その電球を買った骨董屋。「夢買イマス」という札を提げ、「シゲンドウ」と名乗った黒尽くめの店主と無口な西洋の少女がいるあの不思議な店。思えばあの店も、入った瞬間、仄白いような不思議な光に満ちていた気がする。時間に置き去られてあの空間だけ時計の螺子が緩やかに解けているような、そんな手触りのする、懐かしい水底のようなあの空気。
「おい、君!」
僕は我知らず翡翠色の小鳥が織り成す回想に沈んでいたのだが、それは突然の声に破られた。
「そこの君だ、書生君、いや、学生ということはないか。」
やたらと滑舌が良いはっきりと通るその声の主の方を振り返って見ると、短髪に銀縁の眼鏡をかけた男が立っていた。一重瞼に三角の目の持ち主で、鼻の線が細い。その割に輪郭線は少年のように滑らかで、顎はきりりと小さく尖っている。少し猛禽類を思わせる顔なのだが、不思議な愛嬌があるように感じた。年の頃はおそらく僕と同じか、一つ二つ上か―――とはいえ僕のそういった目はあまり確かではないので、当たっているかどうかは甚だ疑問なのだが。白いシャツには織による細いストライプの陰翳が浮かび、襟とカフスだけは織り模様のない真っ白な平織で接ぎ替えられている。素人目に見ても仕立ても素材も良いそのシャツと洋履、洋燈の光を映し返すほど磨かれた革の西洋靴。傍らで石田がぎょっとしたような顔で「西王子の…」と呟くのが聴こえたが、乱入してきたその男の声が大きいので続きはよく聴こえなかった。
「その話をもっと詳しく聞かせてくれ給え。」
そう言って男がテーブルについた手に目を向けると、袖口のカフス釦が鈍く光った。純銀らしいそのカフスの面には金色のメダイのようなものが嵌められていて、帝都のシンボルである六晶の紋が刻まれている。中央に勤めている人なのだろう。第二区は中央の隣の区画であるためか、このあたりのカフェーには政治家や中央勤務の人たちが多く通う。新しもの好きの連中や、文化人も多い。出版社も近いせいで編集者や記者たちも集まる。尤も編集者や記者は、酒の席に零れ落ちる様々な情報の方を目当てにしている節もあるのだが。
僕は今の話をどこから話し直していいものやら少し迷ったのだが、最初から話すことにした。とてもじゃないが断れるような勢いではなかったのである。
「ふむ、つまりその骨董屋で買ったヨルガ動力の電球が怪しいわけだな。」
すっかり僕らの席に落着いてしまったその男は、驚くほど熱心に僕の奇妙な話を聞いた。話の都度肯き、問い返し、口の中で何かぶつぶつと呟いては内容を整理して分析しているようだった。
「うーむ、その骨董屋にも興味が尽きないが…」
顎に手をあてて考え込んでいたその男は突然顔を上げて僕の方を見ると、よし、と手を打って、唐突にこんな科白を吐いた。
「君、その電球を僕に譲ってくれないか。」
思わず間抜けな声で問い返しそうになった僕だったが、その前に彼の言葉をもう一度頭の中で反芻する必要を感じた。今、この男は、電球を譲ってくれとそう言った、ように聞こえたが、果たして合っているのか。僕は助けを求めるように石田の方を見たが、石田は僕に輪をかけて呆然と、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で口を開けている。そんな僕らにお構いなく、目の前の男はさらに畳み込む。
「勿論、無償(ただ)とは言わん。十分な対価を支払おう。」
幾らで譲ってくれる?と僕に迫る彼の顔を見て、彼がこの上なく真剣なのだということはよく判った。しかし曰く付きの変な電球なのである。いいのだろうか。僕がそのように問うと、彼は胸を張ってはっきりと答えた。
「だからいいんじゃないか。普通の電球なら何処でも買えるだろう。」
性急な性質らしく、譲ってくれるのかくれないのかと、彼が早々に回答を求めるのを見て、これは譲らないなどと言ったところで聞きはしないだろうなあと僕は半ば諦め気味に息を吐いた。
「構いませんよ。少しだけ使ってしまったので中古ですけど、それで宜しければ。」
僕がそう言った途端、彼の睛が綺羅の如く輝いた。謝辞を述べる満面の笑みを見ていると、誰かに似ているような気がした。誰だろう、と思って記憶を探ると、悪戯好きで利発な故郷の弟の顔が浮かんだ。確かにあれはこういう目をしてよく僕に悪戯を仕掛けたものだった。
僕としても正直あの電球では仕事にならないので、どちらにしても買い換えるしかなかったのだ。置いておいても使えない電球、欲しいという者があるなら、その手に渡した方が物だって幸せな筈である。
「僕は西王子、西王子正史(ニシオウジ・タダフミ)だ。よろしく。」
彼はそう言うとその右手を僕に向かって差し出した。僕も釣られて右手を出しながら、訳のわからぬまま自分の名を名乗る。
「ええと、笹木草一朗(ササキ・ソウイチロウ)です、宜しくお願いしま…」
最後の一文字を言い終える前に、彼、西王子の手が僕の手を掴んだ。と、思うと勢いよく上下に振ったので、最後のその一文字は何処かへ吹っ飛んでしまった。
「よろしく頼む。それにどうやら君はもっとたくさん面白い話を知っていそうじゃないか。是非その話も聞かせてもらいたいんだが…」
銀色の眼鏡がずいと近づいて、空いている手が僕の肩を掴んだ。眼鏡の向こうの睛はやや色素が薄くて瞳孔が目立つ、そんなところもなんとなく猛禽類じみている。しかしこんなに他人に接近されたことがないため、僕は思わず後ろに体を引いた。長椅子の背に張られた革が僕の代わりに、きゅう、と泣くような情けない音を立てた。
「あら、そのお声は西王子先生でいらっしゃいますわね。」
そのとき、艶のある女の声が聴こえた。
例えるならそれは絹の天鵞絨のような質感の声だった。ざわめきと音楽とに満たされた雑多なこの空間の中にあっても、まるで耳に吸い付くように届いた。先ほどまでのこの男の声に較べれば囁きと言ってもいい喋り方だったにも関わらず、その声の前には他のすべての音が無音になったかのようにさえ思われた。
「ああ、君か。」
西王子”先生”と呼ばれた男は振り返ると、彼女に笑い返した。どうやらふたりは知り合いのようである。
「お久しぶりです。お元気でいらっしゃるようで何よりですわ。」
女性は膝下丈のモダンな西洋服を纏い、肩には狐の追い掛けを掛けている。琥珀色の光を映す生成りのその布はジョォゼットだろうか、薄く滑らかに落ちる裾には繊細で複雑なレースとタックの切り嵌め細工が左右非対称(アシンメトリ)に施されている。袖と襟は裾に較べると素っ気無いような断ち切りであるが、そのデザインはかえって袖口から伸びる彼女の腕のたおやかさと首筋の細さを際立たせていた。
「お久しぶりなのは僕の方ではなく、君の方だと思うんだが。」
「まあ、先生。先生らしい仰り様ですわね。ふふ。」
僕は取り敢えず会話の矛先が自分から逸れたことに安堵しながら密かに溜息をついた。変わらず滑舌はいいのだが、先ほどまでよりも落着いて聞こえるこの男の洒脱な受け答えに少しばかり驚きを覚えながら、二人の会話を見守る。
「あら…そのお隣の方…」
すると彼女は気づいたように僕の方に顔を向けた。緩やかに巻かれた長い髪が左の目に掛かるように流れ落ち、右の目は閉じられたままだ。彼女は探るように手のひらを空に向けて彷徨わせた。細く白い指先はたおやかな曲線を描いて、蝶の浮遊を思わせる。そして僕はそのとき初めて、この女性は目が見えないのだということに気づいた。彼女は慣れたようにその手のひらを僕の方へ伸べると、ふと首を傾げた。
「何かしら…とても懐かしい…貴方から懐かしい光を感じますわ。以前にお会いしたことがありましたかしら?」
あるわけがない。僕にこんな美しい女性の知り合いがいたなら、もう少しこれまでの人生が色彩豊かだったと思う。
どう答えたものかと思っていると、西王子が口を挟んだ。
「君、その科白は以前僕にも言わなかったかね?」
女性はにこりと微笑むと、変わらぬ柔らかな声で答えた。
「ええ、申し上げましたわ。西王子先生は先生の周囲にその光が漂って視えますの。でもこちらの方はこの方の中からその光を感じるような…」
耳の奥をふわりと包まれるような声である。それでいて芯のある響き。声色の柔らかい女性<ひと>は微笑みも柔らかいものなのだなあと、そんなことを考えながら見惚れる僕を他所に、彼女は少しばかり驚くような発言をした。
「おふたりは何だか似ていらっしゃるので、旧来のご友人同士なのかと思いましたのよ。」
いえ、たった今ここで会ったばかりです。と、言いたいのだが、ここで口を挟むべきかどうかも判らず、僕は心の中でだけそう呟く。ところが西王子という男はまたもや頓狂な反応をした。
「おお、君、笹木君だったか、やっぱり僕たちは友となる運命にあるようじゃないか!実に喜ばしいことだ。」
晴れやかに笑うこの男は僕から見ればかなり常軌を逸しているのだが、女性の方は一向意に介す風もなく微笑みを崩さない。この女性、この男のこういう態度にもう慣れているのだろうか。それとも僕が狭量なのか。そんなことをぐるぐる考えていると、女性は僕に向かって礼をした。
「笹木様と仰るのね。宜しくお願い致します。」
僕は面喰らってしどろもどろになりながら、先ほどしたように名を名乗る。
「あ、どうも。笹木ソウイチロウです…」
すると意外な方向から肘で突付かれた。石田である。右手を示しながら口だけを動かして何か必死で訴えている。ああ、もしかして握手をしろということか。
僕は右手を差し出した。握った彼女の手は少しだけひやりとして滑らかで、やわらかな手だったにも関わらず何故か僕はその手触りから真珠か磨かれた鉱石を連想した。
同席している石田にも彼女は丁寧に挨拶をし、石田も流暢な受け応えで応じる。石田が僕をずいぶん持ち上げて紹介したので、僕は未来の大作家様ということになってしまった。石田の心遣いはとても有難いのだが、居心地が悪いので正直勘弁して欲しい。自分の書いているものが非常に地味で、世に大当たりするようなものではないことくらい、自分が一番よく知っているつもりである。
会話の途中、気づいたように彼女が顔を上げた。
「あら、休憩に入ってしまいましたのね。急がなくちゃ。」
何のことかと思ったが、彼女が首を少し伸ばして周囲の音を聴いているのに気づいた。先ほどまで流れていた音楽が止んで、楽師たちは思い思いに楽器の手入れをした歓談したりしている。
「私ひとりの足では少し舞台が遠いようですわ。西王子先生、お話中恐縮なのですけれど、私を舞台まで案内して頂けますかしら。」
彼女は西王子に向かって微笑むと手を差し伸べた。風になびく花茎を思わせるその動きはなんとも優雅である。
「それは光栄なお申し出です。喜んでその大役を果たさせて頂きましょう。」
西王子は右手の指を揃え軽く己の胸に引き寄せると、実に洗練された所作で礼をした。男の僕でも見惚れてしまうほど流麗で淀みのない動き。逆の手で彼女の細く白い指を取る。では、と彼女は僕たちに頭を下げ、歩き出した。刺繍された布と滑らかな革を組み合わせたパンプスと、ひらめく裾の影が磨かれた床に映りこむ。彼女が通り過ぎるとき、ふわりと甘いような懐かしいような馨が漂った。
彼女をエスコォトしている西王子は、数歩進んでから思い出したように振り返ると右手を挙げ、
「おい、笹木君、約束だぞ、忘れるなよ!」
と大きな声で叫んだ。他の席の客たちが振り返ったが、西王子は気にする様子もなくまた前を向くと、彼女とともに悠然と歩いて行った。
彼らが去った後、僕はなんだか呆然としてしまって、暫く何を言っていいやら判らなかったのだが、そんな僕の横で石田が盛大に溜まっていた息を吐いた。
「…笹木君、君は本当に変わったものを寄せる体質だなあ。」
遠ざかる二人の背中を見送って、石田は驚きも覚めやらぬ顔で額の汗を拭いながら言う。「ああ、あの綺麗な女性のことですか?」
僕もなんだか喉が渇いて手元のグラスの中身を一気に飲んだ。幸い氷がすっかり溶けてアルコホルは薄まっており、冷たいその液体は程よく僕を落着かせてくれた。
「いや違うって、まあそりゃそっちもそうだが、何より男の方だよ。」
石田は自分のグラスに手酌で酒を注いで氷を放り込む。順序が逆になっているあたり、彼も動揺しているのだろう。まだ殆どストレートであるそれをぐいとあおると、元々低い位置にある背をさらに屈め、声を潜めるようにして言った。
「あの男はな、かの西王子侯爵家の長男だよ。」
気づかなかったのか?と半ば呆れたように僕を見上げながら新しい紙巻煙草に火をつける。「西王子侯爵」と言われれば、若干世事に疎い僕でもさすがにわかる。帝都政府の最上層部、切れ者と噂の高い要も要の人物だ。誰でも顔くらいは新聞で知っている、とんでもない有名人である。しかしそんなお堅い人物のご子息というには、あの男は随分破天荒な性格だった気がするのだが。
「とはいえ変わり者でな、帝大を首席で出るくらいの天才で、しかも西王子家の嫡男だというのに、政治の方には一切関心がなくて、なんと医者になっちまったんだと。医者っていうか研究者か?中央の研究施設、それから三区の大病棟にも籍を置いてるって話だ。」さすが雑誌の編集長、石田はこういったゴシップには恐ろしく詳しい。
僕は先ほど目に留まった彼のシャツの袖口にあったカフスを思い出していた。あの帝都の紋章は、中央機関の関係者に与えられる徽章を加工したものなのだろう。しかも金の徽章ということは、それなりに高い地位の仕事をしているのだ。
石田はいつの間にか先ほどの酒を空けていて、今度は氷を先に入れると咥え煙草のまま再びデキャンタの硝子の蓋に手を掛けた。動揺というより興奮しているのかもしれない。
「ただな、天才とナントカは紙一重って言うだろう?そんな研究をやってるってのに、どうも大のオカルト好きなんだとよ。」
それを聞いて僕はいろんなことを一気に理解した。
政治方面の記事には慎重な筈のこの男が、何故こんなに西王子という人物に詳しいのか、そして彼、西王子が電球や僕の与太話に何故あれほど興味を示したのか。先ほどの石田への賛辞を、「さすが雑誌の編集長」から「さすがカストリ雑誌の編集長」に訂正せねばなるまい。
「噂には聞いていたが、こりゃ噂はほとんど真実だったってことでいいみたいだな。全くそのまま家継いでりゃ爵位持ちだってのに、天才の考えることは凡人にはよく判らんねえ。」
まあいい取材対象ではあるんだがなあ、あの家柄じゃなあ…と石田は独り言のようにぶつぶつと呟いた。確かにカストリ好きのする人物でしかも家柄的にも非常にネタになる。が、しかし、下手に書いても揉み消されるか、悪くすれば藪を突付いて大蛇が出かねないというわけだ。
そのとき、ぽーんとひとつ、ピアノの音が響いた。休憩を挟んでいた舞台で再び演奏が始まるのだろう。目を向けると、舞台の中央には先ほどの女性が佇んでいた。
嗚呼、この店の歌姫だったのか。
音数の少ない静謐な前奏が終わり、彼女の唇が動く。
それはどこまでも柔らかく澄んだ歌声だった。光沢を持ち空気を含んだ上質の絹糸が、螺旋を描いて織られながら天へ昇ってゆくような、柔らかな耳触りと馥郁たる響き。ざわめきに満たされていた店の中もこのときばかりは静まり返り、皆一様に彼女の声に耳を傾けている。僕らも会話を忘れ彼女の歌に聴き入り、彼女の姿に見入った。その立ち姿、わずかに揺れる腕や肩、服の裾の動きまでもが「音楽」だった。
白い指先が描く軌道を追い、僕の目はその指が彼女の白い頬の前をよぎるのを映す。そのとき歌う彼女と目が合った。これだけ距離を置いていて目線など定かではないのだが、それにそもそも彼女は目を瞑じているはずなのだか、何故か僕ははっきりとそう感じたのだ。
刹那、僕は己の足元から彼女の足元へ、澄んで煌く大きな流れを視た。地下深くを流れる川、まるで巨大な水脈のような。否、水ではなく、鉱脈なのかもしれない。水よりももっと硬質で冷たい静謐な光。その仄白い表面(おもて)から、水面に散る微かな飛沫のように光の欠片が跳ねる。その欠片は蛍か羽虫のようにゆらゆらと漂い、光の大河を淡く縁取っている。静止しているのに、流れている。遠いのに、触れそうなほどに近い。あんなにも巨大なのに、どこか幽けく儚い。不思議な、形容し難い淡く美しい光。耳に届くピアノの弦の響きの中に、何処からか硬く澄んだ別の音(ね)が混じる。深い深いところから響くような、それは不思議な音色だった。
足元の床がなくなったような錯覚を覚えて、僕は長椅子の中でバランスを失った。思わず目を閉じて背凭れに倒れこむ。手すりの革張りの手触りを掴んで目を開けてみると、先ほどの幻影は消え、琥珀色の光に満ちた店の風景に戻っていた。市松の床、紳士淑女の群れ、花を模った硝子の電笠。
彼女の一曲目の歌は終わっていた。拍手が高い漆喰の天井に描かれた造り物の円い青空に吸い込まれていく。
「大丈夫か笹木君、居眠りするくらいきついのかい?」
先刻僕が突然背凭れに体を落としたのを居眠りと誤解したのだろう、石田が伺うようにこちらを見た。舞台では演奏は二曲目に移り、歌姫は今度は西洋の言葉で楽を紡いでいる。僕は先ほどの幻影の衝撃から抜けられず、微妙に現実感がないままだ。どう言っていいのか判らないが、とてつもなく大きな、深い、そのくせ懐かしい温かさと――畏怖ろしさを併せ持つ、そんな風景だった。体の中にまだその感覚が残留している。
「石田さん、今…」
そう言いかけたが僕は続きを飲み込んだ。おそらく彼には視えていなかったのだろう。純朴なこの人物のことだ、あんなものを見ていたら真っ先に声を上げているに違いない。
「笹木君、珍しく酔ってるな。顔色がよくないぞ。それとも何だ、また君お得意の怪奇体験てやつか?おお、だったら大歓迎だぞ。飯の種だからな。」
石田は揶揄うように豪快に笑うと、僕の腕を叩いた。
「まあまあ、今日はそろそろ終いにして帰ろうじゃないか。この店の看板、珠玉と謳われる歌姫の歌も聴けたことだし、十分にいい夜だった。」
歌姫の歌が終わる頃、僕らは席を立った。桟敷の手すりから店を見下ろし、そして高い天井を見上げる。漆喰の白い壁は白熱灯の光で薄い琥珀の衣を纏い、床の大理石(マーブル)は市松模様の中に古い時間と地層を抱いて横たわる。客は少しはまばらになったものの、まだ続く夜を楽しんでグラスを傾けている。宵闇の底に淡く灯り、人たちを殻のように抱く、この店そのものがまるで大きな琥珀のようだ。